「芝居小屋の中だけの話にはしたくなくて、外側にも広がっていくことを意図して設定を決めました。ほたるみたいに天災による飢饉がもとで芝居小屋に流れついた人もいれば、金治のように支配階級である武士に生まれたのにそれを捨てて芝居の世界に入った人もいる。豊かだから悩みがないかというと、たぶんそんなことはないんですよね。
語り手の一人として初めは小道具係の久蔵を考えていたんですけど、彼はびっくりするぐらいしゃべらないんですよ。黙々と手を動かしているので嫁のお与根にしました。与三郎もしゃべってもらうのが大変でしたね。自分で書いててそんなこと言うのはおかしく聞こえるかもしれませんけど、無理にしゃべらせると嘘っぽくなるし、考えた通りに動いていると、まだ生きていないんだな、と思います。想定外のことを言ってくれると話が動き出すんです」
ちなみに菊之助をはじめとする登場人物は永井さんがいちから作り上げたものだが、戯作者で元武士の金治だけはモデルとなる人物がいる。
「篠田金治、もとは野々山正二で、二代目並木五瓶ともいわれていて、『保名』という舞踊劇の作者として知られています。実際に旗本の息子だったのに、その身分を捨てて上方に行って、並木五瓶について学び、江戸に帰って劇評を書き、落語もやりました。一人、そういう実在の人物がいることで作品全体の重しになる気がしますし、時間軸も決まってきます」
文化や経済分野、特に女性の「面白い人物」はまだまだいる
歴史が好きで、歴史の中に埋もれた、あまり知られていない面白い人物を探すのが好きだという。
「見つけると、こんな人いたんだ!? ってワクワクします。歴史の研究は、戦争や政治についてのものが多く、文化や経済の分野はまだ発掘されきっていないように感じます。女性史でも、超美女やスキャンダルばかりが調べられているような……。これは男性の研究者が多かったからかもしれません」
新田次郎文学賞などを受けた『商う狼』では、飛脚問屋として流通を改革した商人杉本茂十郎を主人公にした。手持ちの人名辞典には、「いつか書きたい」人物に、びっしり付箋が貼られているそうだ。