ちなみに、ドイツ法廷の判決文の内容は長文で、当時報道された日本語訳もいまとなっては非常に難解なので、それを現代語訳したものを紹介しよう。
〈『ベルリンからの報道によると、シーメンス・エンド・シュッケルト会社東京支社社員カール・リヒテルは、同支社から重要書類を窃取した犯罪をもって二ヵ年の懲役の判決を受けたが、公判においてリヒテルは、シーメンス会社は日本海軍の注文を受注するため、日本海軍将校に贈賄した事実を陳述したので、世人に大きなショックを与えた。被告弁護人の言によると、窃取した書類には、シーメンス会社は、すべて海軍関係の注文については三分五厘、無線電信機械の請負については、一割五分のコミッションを贈与することを、海軍官憲に申し込みたることを示している模様であり、法廷で朗読された唯一の書類は、被告よりシーメンス会社重役にあてたる書簡で、その文中に、窃取した書類から引用した文句が若干あった。その引用した文句の一つは、ベルリン本社から東京支社に申し送った一節であり、それによると、沢崎大佐と取り決めたコミッション契約はいまも存続してぶじに実施されているので、いますぐロンドン駐在の藤井提督とコミッションの取り決めをなすことは背信行為であり、軍艦一隻につき五分、他の海軍用品注文につき二分五厘というような法外なコミッション契約を藤井提督と取り結ばねばならない理由はどこにもない。(以下略)』〉
(『史話・軍艦余録 謎につつまれた軍艦「金剛」建造疑獄』紀脩一郎著 光人社刊)
文中に登場する「沢崎大佐」は沢崎寛猛艦政本部課員海軍大佐であり、「藤井提督」は海軍艦政本部第四部長海軍機関少将藤井光五郎のことで、二人はその後軍法会議にかけられ有罪となり、官位をすべて剥奪された。「贈賄の事実はあった」ということである。東京に駐在していたロイターの東京特派員アンドルー・プーレーも警視庁に逮捕され、事件は大きく広がる様相を呈した。
この間、攻守所を代えた野党の動きは活発で二月十日には立憲同志会・立憲国民党などが衆議院に山本内閣弾劾決議案を上程した。この日、帝国議会議事堂と目と鼻の先の日比谷公園(当時、議事堂は隣町の内幸町にあった)で内閣弾劾国民大会が開かれていたが、政友会優勢の衆議院で弾劾決議案が一六四対二〇五で否決された情報が伝わると、激高した群衆が議事堂を包囲し構内に乱入しようとした。
アメリカでトランプ前大統領が大統領選での敗北が確定的になったとき、トランプ支持派が連邦議会議事堂に乱入したのと同じような事件が、日本でもこのとき起きていたのだ。ただし、日比谷焼打事件を経験していた警視庁は巧みに警備計画を遂行し、民衆の国会乱入は食い止めた。
ところが、山本内閣にとっては一難去ってまた一難だった。このシーメンス事件の取り調べのなかで、帝国海軍が初の超弩級巡洋戦艦としてイギリスに発注した『金剛』について、とんでもない疑惑が浮上した。仲介したシーメンス社のライバルであるイギリスのビッカース商会の日本代理店三井物産が、ビッカース社に受注させるために当時の海軍高官に多額のカネを贈賄した疑いが出てきたのだ。
しかも、調べが進むうちにこの疑惑も事実であったとされ、当時の担当者松本和はこの時期は海軍中将で呉鎮守府長官を務めていて、次期海相候補の声もあったのだが、逮捕されてしまった。
これでは山本内閣はもたない。
(1374回につづく)
※週刊ポスト2023年3月24日号