さらに十一月十九日付の同紙には、降伏した「敵の総大将」マイアー・ワルデック海軍大佐のインタビュー記事が掲載された。いわば、「敗軍の将、兵を語る」というべきものだが、彼も神尾作戦を高く評価しているのである。青島要塞に籠っていたドイツ軍は、十月三十一日から始まった日本軍の総攻撃に、わずか一週間しか耐えられなかった。降伏したのは十一月七日の早朝で、それから要塞の明け渡しや捕虜となったドイツ軍人の移送も粛々と進められた。
印象に残るのは、初めて敵側のドイツ軍と同じ交渉のテーブルに着いたときに日本軍側がまず述べたのは、かつてドイツが日本の陸軍を強くするためさまざまな指導をしてくれたことに対する謝意であったことだ。まだドイツ帝国がプロイセン王国だった時代、日本の指導教官派遣要請に応じた陸軍参謀総長ヘルムート・カール・ベルンハルト・グラーフ・フォン・モルトケは、クレメンス・ヴィルヘルム・ヤーコプ・メッケル少佐を日本へ送った。
陸軍大学校教官となったメッケルは、児玉源太郎ら後に日本陸軍の中枢となる人材を多数育成した。そのことが日露戦争を勝利に導いた、と日本陸軍は認識していたのである。ちなみに、この第一次世界大戦のヨーロッパ戦線でドイツ軍を指揮していたのはヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モルトケで、プロイセンのモルトケ参謀総長の甥である。伯父を「大モルトケ」、甥を「小モルトケ」と呼ぶこともあるが、参謀本部システムを考案した名将の伯父にくらべ甥はいまいちだったようで、結局ドイツ軍を敗北させてしまった。
降伏は「不可已」だった
青島に話を戻すと、日本は大正天皇の「思し召し」として、ドイツ軍最高司令官マイアー・ワルデック海軍大佐ほか数名の幹部将校に帯剣を許可した。通常、捕虜となった軍人はすべての武器を没収されて丸腰となるのが普通だが、このときは軍刀を帯びることを許されたわけで、「軍人」の面目を認めた厚遇と言える。
現在の日本ではこうした感覚がまったく失われたので少し解説しておくと、たとえば江戸時代の江戸城内を思い浮かべていただきたい。あれは現在ならホワイトハウスか首相官邸にあたる場所だが、登城している(かつて徳川と敵対した)外様大名も、大刀は預けているが殺傷能力のある脇差を帯びることが許されている。それは将軍から見れば「お前たちがそれを変な目的に使わないと信じている」から、「武士の面目が立つように帯刀を認める」ということなのである。
前にも述べたことだが、逆に言えば大名が江戸城内で私事で刀を抜くということはそうした将軍の信頼を裏切ったということになる。だからこそ浅野内匠頭長矩は直ちに切腹を命ぜられても文句は言えないし、その裁きが結局刀を抜かなかった吉良上野介義央にくらべて不公平だとも言えないのだ。
こういう扱いを受ければ、昨日まで殺し合っていた相手でも悪い気はしない。正式にはドイツ膠州総督府総督だったマイアー・ワルデック海軍大佐は、早くも十一月十七日午前に日本の『薩摩丸』で門司港まで護送されたが、駆けつけた朝日新聞記者(これも名前は書いていない)は早速同船に乗り込み、〈上甲板を逍遙せる(拘束されていなかった)〉ワルデック総督に話しかけた(通訳を使った様子は無いから、記者はドイツ語が話せたのかもしれない)。