そして、アメリカにそう思わせる原因は日本にあったことは、すでに述べたとおりだ。日露戦争のとき、日本はアメリカから外交的・財政的にさまざまなサポートを受けた。それが無ければ勝利は無かったかもしれないし、有利な講和(ポーツマス条約)は確実に無かっただろう。
もちろん、アメリカは純然たる好意だけで日本を応援したのでは無い。南北戦争のために中国への進出が遅れてしまい、あわてて中国への「門戸開放宣言」をしたのも、列強間の中国の利権獲得競争に本格的に参加するためであった。日本勝利の直後にアメリカの「鉄道王」エドワード・ヘンリー・ハリマンが来日し、南満洲での鉄道共同経営を申し入れたのもそのためである。
しかし日本は、一度は桂-ハリマン協定を結びながら破棄してしまった。それはアメリカのモルガンからもっと条件のいい話があったからだという説もあるが、最終的には日本はアメリカを南満洲から締め出す形を作ってしまった。「アメリカのおかげで勝利し、南満洲鉄道の権益を得たにもかかわらず」である。
つまり、一九〇五年の頃からアメリカは日本に裏切られたという思いと、騙されたかもしれないという懸念を抱いていたのである。それはこの日本側の仕打ちを見ればあきらかなことではないか。だからこそアメリカは(じつはイギリスも)日本がこの第一次世界大戦に勇躍して参戦したとき、これは日本の領土的野心を満たすための参戦であると感じたのである。
それゆえアメリカは、できるだけ早く難しい条件もつけずに日本が中国に膠州湾を返還することを望んでいたのである。そして、そうしたアメリカ人の思いは国際的センスのある記者なら誰でもわかることだから、この博文館の記者は「アメリカ人はこう思っている」という部分を重点的に紹介したのだろう。その内容を一言でまとめれば、「日本は果たして無報酬(膠州湾無条件返還)で満足するだろうか?」ということだ。
「驕傲無禮」なのは誰か
そうした危惧を一番強く抱いていたのは、言うまでも無く膠州湾の本来の持ち主、中国である。そこで、この『歐洲戰爭實記』の「支那」の項目を見てみよう。まず冒頭に、「青島占領に關する支那新聞の論調は、概ね驕傲無禮にして、中には殆ど獨逸人の口吻を聞くが如き感あるものすらあり」と述べている。いかにも感情的だが、この時代の日本人は袁世凱政権下で起こった「南京事件」に対して強い憤りを感じていたということを思い出していただきたい。しかし、そういう前置きをつけた記事を実際に読んでみると中身は決してそうでは無い。たとえば、
〈北京デーリー・ニユースは、その社説に於て論じて曰く、青島陷落の結果、開戰以來支那人心に蟠りたる緊張の念減殺するに至るべきは疑ひを容れざる所なり。去りながら、日本の行動は此後益注視せらるべきに付、飽迄對獨最後通牒の趣旨を恪守し、支那人の疑惑を一掃せん事を望む膠州灣を支那に還附し、平和を確保せば、日本は必ずや支那國民の好意を受くるを得べし。〉
話は前後するが、大隈重信内閣が参戦つまりドイツに対する宣戦布告をする前に、じつは最後通牒なるものを突きつけていた。後で詳しく述べるが、日露戦争に日本を導いた「陸軍の法王」山県有朋ですら、参戦には慎重だった。膠州湾では勝てるだろうが、肝心のヨーロッパ戦線でドイツが負けるとは限らないからである。
伊藤博文などにくらべればはるかに積極戦争論者である山県も、幕末の激動を潜り抜けてきた古強者だ。戦争の恐ろしさはよく知っている。しかも前にも述べたように、イギリスは日本の参戦を積極的に望んでいたわけでは無い。イギリスも日本の領土的野心を疑っていたからだ。そのため、大隈内閣では世論を味方につける目的もあって、いきなりの宣戦布告では無く、「ドイツよ、膠州湾から兵を引け。日本はドイツが膠州湾を中国に返還することを望んでいる」という形で最後通牒を突きつけたのである。