ジャズのセッションみたいに
ただ、それだけでは落語ファンがなぜ『芝浜』を、その中でもとりわけ談志の『芝浜』を待望したかの説明としては不十分だろう。落語の世界では毎度、一言一句違わずに演じることを信条とし、それこそが美学だとする向きもある。が、談志は違った。志らくが話す。
「談志はあるときから、落語はイリュージョンだって言い始めて、その都度、変化することを厭わなくなった。その変化に気づかない人からすると、下手になったように聞こえたんでしょうね。志ん朝師匠のファンなんかは毎回、完成形を求めているから、談志の会でひどいのに当たっちゃうと、もう二度と行かないってなっちゃう。でも、談志がそういうスタイルを貫いたからこそ、年に数回、びっくりするような落語が生まれたんです」
ファンはそんな奇跡との邂逅を求め、談志の会に通い続けたのだ。志らくが続ける。
「中でも『芝浜』は遊びやすかったんです。みんながよく知っている噺だし、登場人物も2人だけなのでアドリブを入れやすい。亭主とかみさんの言葉の応酬はジャズでいうところのセッションみたいなもんなんです」
もちろん、そのスタイルの違いは善し悪しではない。落語ファンの俳優・東出昌大は言う。
「僕は変えても変えなくてもどっちでもいい派。変えるよさもあれば、変えないよさもあるんで。『芝浜』に関しては、若い頃は、五代目の圓楽師匠が涙を流しながら語り切る『芝浜』を観て僕も泣きましたし、談志師匠が会場の空気を探りつつ、いろいろな可能性がある中で、その時々の最善を積み上げていって、最後のサゲまで持って行く『芝浜』もすごい。もちろん、志ん朝師匠のディテールにこだわった『芝浜』も大好きです。人はこうあるべきっていう答えがないように、落語もこうあるべきという答えはないと思うんですよ」