立川談志一覧

【立川談志】に関するニュースを集めたページです。

「バカになるほど愛される」という人生の本質を見つけた木久扇
林家木久扇が語る“バカ”の利点「色々許される。自分も楽。周りも助かる」
“おバカキャラ”で『笑点』の大喜利コーナーを沸かせる落語家・林家木久扇(84)。「バカになるほど愛される」という人生の本質を見つけた木久扇が、その生き方をまとめたエッセイ『バカのすすめ』(ダイヤモンド社)を3月に上梓した。それを記念し、木久扇の「バカの魅力」を知る旧知の俳優でタレントの毒蝮三太夫(85)との対談が実現。偉大なるバカの先達から人生が楽になる秘訣まで、存分に語り合った。【全3回の第3回。第1回から読む】 * * *毒蝮:木久ちゃんの本を読んで、バカになることは楽しく生きるスタートなんだとわかったよ。漫画家になろうとして清水崑先生の書生になったら、いつの間にか落語家になっちゃった。バカな失敗もいっぱいしてる。木久扇:バカって得なんですよ。たとえばですけど、落語会が終わると、主催者が出演者に花束をくれたりする。でも、ぼくは係の人に「花じゃなくて、お米をわたしてください」って頼むんです。ひとりお米をもらっているとウケるんです。しかも食べられる。毒蝮:普通だったら「お米なんてあげたら失礼なんじゃないかな」って心配になる。だけど、木久ちゃんなら大丈夫だ。木久扇:「あの人ならしょうがない」と思ってもらえる。バカになるといろんなことが許されます。自分も楽だし、まわりだって助かる。毒蝮:バカがいると、ホッとするしね。「あれでいいんだ」って、世の中に希望が持てる。バカは世の為人の為でもあるわけだ。だけど木久ちゃんの言うバカは、本当のバカにはできないよね。木久ちゃんだって、多少はバカかもしれないけど、全部はバカじゃない。木久扇:最近は、どんどんバカのほうに移行しつつありますけどね。はっと気がついて、あわてて戻ったりしてます。毒蝮:俺たちもそれなりの年齢になったけど、木久ちゃんは、引き際なんて考えたことある?木久扇:ぼくは仕事の依頼があると、どんどん予定を入れちゃう。約束すると「そこまでは生きなきゃ」と思うんです。体が動く限りは、それを続けていくのかな。毒蝮:俺もそうだな。カミさんは「いいかげんリタイアして、のんびりすれば」って言うけど、必要とされているうちはがんばりたいからね。木久扇:世間では「終活」って言葉が流行ってますけど、せっかく生きてるのに、死ぬ時のことを考えて準備をするなんてもったいない。ぼくはそう思うんですよね。「余生」って言葉も、ぜんぜんピンときません。毒蝮:余生はピンとこなくても、寄席はしょっちゅう出てるけどね。木久扇:いい締めだ!(了。第1回から読む)【聞き手・構成】石原壮一郎(いしはら・そういちろう)/1963年、三重県生まれ。コラムニスト。『大人養成講座』『大人力検定』など著書多数。林家木久扇著『バカのすすめ』の構成を担当した。※週刊ポスト2022年4月8・15日号
2022.04.07 07:00
週刊ポスト
様々な「バカ」について話した
毒蝮×木久扇対談「タチが悪いのは自分を上等に見せようとする利口バカ」
“おバカキャラ”で『笑点』の大喜利コーナーを沸かせる落語家・林家木久扇(84)。「バカになるほど愛される」という人生の本質を見つけた木久扇が、その生き方をまとめたエッセイ『バカのすすめ』(ダイヤモンド社)を3月に上梓した。それを記念し、木久扇の「バカの魅力」を知る旧知の俳優でタレントの毒蝮三太夫(85)との対談が実現。偉大なるバカの先達から人生が楽になる秘訣まで、存分に語り合った。【全3回の第2回。第1回から読む】 * * *毒蝮:立川談志と木久ちゃんは、噺家としてぜんぜんタイプが違うけど、なんでウマが合ったのか、そこが不思議だね。木久扇:ぼくが前座だった頃、夏の日に上野の鈴本演芸場の楽屋に行ったら、談志さんがいたんです。当時はまだ二つ目の柳家小ゑんさんでした。毒蝮:俺の結婚式の司会をしてくれた頃だ。木久扇:高座から降りてきた談志さんが、「暑いな。こういう日は高座に上がったあとに風呂に行くといいんだよな」って言ってる。ぼくは自分が使うつもりでお風呂道具を一式持ってたんです。それを「どうぞ」って渡したら、「おまえすげえな!」って喜んでくれて。それからキャバレーで仕事の時とか、鞄持ちで連れて行ってくれました。毒蝮:風呂道具の話は初めて聞いた。それは気が利くよ。気がキクちゃんだ。あいつの高座も好きだったの?木久扇:談志さんは、いつも難しい噺ばっかりやるんですよね。上手いんだろうけど、あんまりよく聞いてませんでした。ぼくは「山のアナアナ」の三遊亭圓歌さんや、先代の林家三平さんみたいなわかりやすい噺家が好きなんです。毒蝮:そりゃいいや。俺もあいつが二つ目の頃、当時やってた劇団の仲間と5人で海水浴に行った帰りに、横浜の相鉄演芸場に談志が出てるってんで、みんなで寄ったことがある。タダで入れてくれたんだけど、いちばん前で並んで座って、そのときも難しい噺をやってたな。こっちは海水浴帰りだから、みんなグーグー寝ちゃったんだよね。あとから「お前ら、いいかげんにしろ」って怒ってたけど、「寝られるぐらいいい話だったんだよ」って言ってやった。木久扇:落語の話は、談志さんとはした覚えがないですね。「お前はバカだから」って言われて。独演会のときも、開演前に差し入れだけして噺は聞かずに帰ってました。毒蝮:だけど、談志はそんな木久ちゃんが大好きだった。木久ちゃんだって、談志が好きだったわけだよね。木久扇:ぼくは、世間の物差しで測れない人が大好きなんです。横山やすしさんとも仲良しでした。人が思っていることじゃなくて、どっか違うことをやるような。毒蝮:談志も木久ちゃんも、自分にないものを持っている同士で惹かれ合ったんだろうね。俺もそうだったのかな。仲は良かったけど、芸談は一度もしたことない。木久扇:そういうのは得意な方や好きな方が、ほかにたくさんいらっしゃいますから。毒蝮:そうなんだよ。タチが悪いのは、自分を上等に見せようとする利口バカだ。バカの道を堂々と歩んでいる木久ちゃんと比べると、そいつらの薄っぺらさが際立つね。木久扇:噺家の先輩で尊敬すべきバカといえば、やっぱり先代の林家三平さんですね。バーで飲んでるときも、ずっとあの調子で、「たいへんなんスから、もう」ってやってる。怒ったのは見たことない。毒蝮:歌手の戸川昌子さんがやってた「青い部屋」ってバーが青山にあってさ。談志が俺を連れて行ったの。そしたらカウンターで俳優の森雅之さんがひとりで飲んでた。『羅生門』や『浮雲』に出てた二枚目の名優だ。いい格好だよね。そこに三平さんがすっと寄って行って、「こんばんは、加山雄三です」って。木久扇:森さんは困ったでしょうね。どう反応していいかわからない。毒蝮:でも三平さんは、また帰りがけに「どうもすいません、加山雄三です」ってやってた。バカを演じ切る人だったね。木久扇:談志さんが毎晩通ってた銀座の「美弥」でも、いろんな方にお会いしました。毒蝮:別名「夜の連絡事務所」ね。芸人もいっぱい来たし、俳優や政治家もいた。紀伊國屋書店の創業者の田辺茂一さんには、ずいぶんごちそうしてもらったな。いつもくだらねえダジャレ言ってた。北陸の温泉でマッサージ呼んだら、端ばっかり揉んでる。「肩もやってくれ」と言ったら「ここは肩揉まず(片山津)です」とか、そういうの。木久扇:月の家円鏡さん(のちの橘家圓蔵)と銀座のクラブに行ったら、田辺さんがいらして同じ席で飲んだんです。田辺さんがダジャレばっかり言ってるもんだから、円鏡さんが頭に来て、田辺さんがよそ見をしてるスキに、レミーマルタンかなんか高いお酒が入ったグラスを取って、横にあった植木の鉢にぶちまけちゃった。毒蝮:植木を酔っぱらわせちゃったわけだ。俺は「美弥」で、円鏡さんが田辺さんの頭から水割りをぶちまけて、びしょびしょにしてる場面を目撃したことがある。田辺さんはニコニコしながら「気が済みましたか」って言ってた。木久扇:蝮さんやぼくがお付き合いしてきた噺家さんたちは、みんなハチャメチャでしたね。毒蝮:花見に行ったら、誰かが酒の四合瓶にしょんべんして、それを別のヤツが間違えて飲んじゃった。「誰だこんなとこにしょんべん置いたのは!」って怒ったら、入れたやつが「俺も飲むからいいじゃないか」ってグーっと飲んじゃった。「これでおあいこだ」なんて言ってる。そんな連中だったからね。木久扇:噺家の世界も、今は学校の教室みたいになっちゃった。入りたての新人でも、ソツがなくて、失敗しない。もっとバカにならないと。毒蝮:バカは迷惑なところもあるんだけど、すごく魅力的でもあるよね。木久扇:この頃の若い人は、バカにならないようにしよう、人からバカにされないようにしようと一生懸命になってるように見えます。それだと自分もつらくなるし、人も寄ってこない。毎日がつまんなくなっちゃう。(第3回につづく)【聞き手・構成】石原壮一郎(いしはら・そういちろう)/1963年、三重県生まれ。コラムニスト。『大人養成講座』『大人力検定』など著書多数。林家木久扇著『バカのすすめ』の構成を担当した。※週刊ポスト2022年4月8・15日号
2022.04.06 07:00
週刊ポスト
林家木久扇と旧知の毒蝮三太夫が対談
林家木久扇×毒蝮三太夫対談「今日は“談志被害者の集い”でもある」
“おバカキャラ”で『笑点』の大喜利コーナーを沸かせる落語家・林家木久扇(84)。「バカになるほど愛される」という人生の本質を見つけた木久扇が、その生き方をまとめたエッセイ『バカのすすめ』(ダイヤモンド社)を3月に上梓した。それを記念し、木久扇の「バカの魅力」を知る旧知の俳優でタレントの毒蝮三太夫(85)との対談が実現。偉大なるバカの先達から人生が楽になる秘訣まで、存分に語り合った。【全3回の第1回】 * * *木久扇:ご無沙汰してます。お元気そうで。毒蝮:お互いに、生きてるうちにまた会えてよかったよ。去年の5月に足を折ったって聞いたけど。木久扇:だいぶよくなりましたけど、『笑点』の大喜利や高座は、まだ椅子でやらせてもらってます。正座も、15分ぐらいはできるんですけどね。毒蝮:無理しなくていいよ。『笑点』も見たけど、座布団が7~8枚積んであるから、椅子に座ってるのが目立たないね。木久扇:うまく隠れてるんです。だから、座布団を減らすわけにいかない。高座も椅子で出てますが、お客さんはあたたかく許してくれるんです。「大腿骨を折ったんですよ。“だいたい”このへんなんですけどね」なんて言うとウケるし。毒蝮:それでいいんだよ。とくに高齢者になると、つい強がって元気なフリをしたくなるけど、見てる人に痛々しさを感じさせたら何にもならない。弱みもそのまま見せたほうが、見るほうだって楽な気持ちで見られる。木久ちゃんは、椅子に座る姿で高齢者のあり方を教えてくれてるね。木久扇:そんなたいそうなことは考えてないんですが。ただ、噺家の中には「正座ができないなら高座には上がらない」とおっしゃる方もいるでしょうね。“弱み”を抵抗なく見せられるのは、長年ずっと「おバカキャラ」をやってきたぼくの強みかもしれません。毒蝮:今日は「談志被害者の集い」でもある。俺たちはふたりとも、立川談志のせいで人生を大きく変えられた。木久扇:まったくですね。とんでもない方でしたよ。どれだけ感謝しても感謝しきれません。毒蝮:俺は「石井伊吉」という本名で役者をやってて、『ウルトラマン』や『ウルトラセブン』に出てたのに、あいつに言われて『笑点』で座布団を運ぶことになった。「毒蝮三太夫」なんて名前を名乗ることになったのも、そのせいだ。木久扇:ぼくも前座の頃から談志さんにかわいがってもらいました。『笑点』に引っ張ってくださったのも談志さん。大喜利メンバーになったのは、談志さんが選挙に出るからと司会を降りた次の週からでした。その時、「木久蔵は与太郎でやってみな」とアドバイスされたんです。毒蝮:「与太郎」と言えば、落語の世界ではバカの代名詞だ。木久扇:談志さんは大喜利を長屋に見立ててました。歌丸さんは小言幸兵衛、小圓遊さんはキザな若旦那……。私もそれから50年以上、与太郎をやり続けています。毒蝮:俺も「談志がいないなら出てもしょうがない」って同時に番組を降りたから、木久ちゃんとは『笑点』では入れ替わりなんだよな。若手大喜利で座布団を引っぺがしたことはあったけど。木久扇:歌丸さんが司会だった最後の頃に、スペシャル版で蝮さんが座布団運びをしてくださったこともありました。最後のほうは面倒くさいからって、座布団を投げてましたけど。毒蝮:ひどい座布団運びだね。運んでない。木久扇:蝮さんと知り合ったのは、ぼくが『笑点』に出るだいぶ前でしたよね。それも談志さんの絡みでした。毒蝮:そうだったな。噺家仲間でクルマ2台に分乗して、村山貯水池(多摩湖)のほうに鴨料理を食べに行ったんだよな。俺は噺家じゃないんだけど、あの頃は、よくつるんで遊んでた。木久扇:談志さんはカメラに凝ってて、写真をたくさん撮ってくれたんですよね。あとから「これは木久蔵の分」って写真をわたされて、「ありがとうございます」って言ったら、「1枚17円だから7枚で119円」って。毒蝮:焼き増し代を取られたんだ。あいつが勝手に撮ったのに。木久扇:やさしかったんですけど、しっかりした人でしたね。いつも経済が付いて回っていた。(第2回につづく)【聞き手・構成】石原壮一郎(いしはら・そういちろう)/1963年、三重県生まれ。コラムニスト。『大人養成講座』『大人力検定』など著書多数。林家木久扇著『バカのすすめ』の構成を担当した。※週刊ポスト2022年4月8・15日号
2022.04.05 07:00
週刊ポスト
林家木久扇(撮影・小倉雄一郎)
林家木久扇が見た「日曜夕方の伝説司会者たち」、その意外な素顔
 国民的長寿番組「笑点」(日本テレビ系)で、おバカキャラの“黄色い人”として大人気の林家木久扇さん。今日も日本じゅうに、バカの素晴らしさと底力を見せつけている。最新刊『バカのすすめ』(ダイヤモンド社)が話題の木久扇さんに、座布団の上から見た歴代司会者の知られざる素顔を語ってもらった。(構成・石原壮一郎) * * * おバカのスーパースター林家木久扇です。おかげさまで、街を歩くと小さな子どもからも「あ、おバカの人だ」と指をさしてもらえます。こんなありがたいことはありません。 ぼくが「バカ」を看板にできているのは、ひとえに「笑点」のおかげです。大喜利メンバーになって今年で足かけ54年目。番組や寄席でよくネタにしていますが、その間に5人の司会者を送りました。そのたびに香典代が3万円ずつ……。感謝の気持ちを込めて、偉大な5人の歴代司会者と今の司会者の春風亭昇太さんについてお話しましょう。●初代司会者・立川談志さん(1966年5月~1966年11月) 初代司会者は、番組の生みの親でもある七代目立川談志さん。当時、落語が何となく敷居が高い芸になりかけていました。談志さんには「どうにかしないと、このままじゃ落語が滅びてしまう」という思いがあったんですね。それで「笑点」を立ち上げたんです。 談志さんが心配したように、もし「笑点」がなかったら、今ごろ落語はどうなっていたことか。先見の明がある人でしたね。まさに天才だったし、努力家でもありました。「笑点」の大喜利は、牢名主のイメージなんです。時代劇を見てると、牢名主は新人の畳を取り上げて、それを重ねて高いところで威張ってる。そこからの発想です。談志さんはさらに、大喜利という場を落語の世界の長屋に見立てた。司会者は大家さんで、メンバーが店子。歌丸さんが小言幸兵衛、小園遊さんはキザな若旦那、こん平さんは田舎から出てきた権助と、それぞれ役を割り振りました。 ぼくが大喜利メンバーになったのは、談志さんが衆議院選挙に立候補するからと司会を降りた次の週からです。ただ、その前から若手大喜利に出してもらったり、同じプロダクションでアドバイスを受けたりしていました。「笑点」のスタッフにぼくを推薦してくれたのも談志さんです。レギュラーメンバーになってから、談志さんに「木久蔵は与太郎だよね。その線で行ってみな」と言われました。そこでぼくの進む道が決まったんです。 味方も敵も多い人でしたが、すごい人であるのは間違いありません。ぼくや「笑点」にとってはもちろん、落語界にとっても大恩人です。●二代目司会者・前田武彦さん(1969年11月~1970年12月) 立川談志さんのあとを受けて二代目司会者になったのが、放送作家から売れっ子タレントになった前田武彦さん。談志さんの推薦だったそうです。同じ時期に「巨泉×前竹のゲバゲバ90分!」や「夜のヒットスタジオ」にも出てらっしゃいました。 司会がマエタケさんになったのと同時に、ぼくも大喜利のレギュラーになったんですけど、最初は右も左もわからず、あんまりおもしろい答も言えませんでした。「木久蔵は降ろしたほうがいい」という声もあったようです。「自分が好きなものをネタにするといいんじゃないか」という先代の円楽さんの助言もあって、半ば破れかぶれで、鞍馬天狗の声色で「杉作、ニホンの夜明けは近い!」と言い始めました。それが大ウケしたんです。 マエタケさんは器用で頭の回転も速い方でしたが、発想やリズムがバラエティ番組っぽくて、落語の世界のそれとはどうしても違いがある。メンバーにはちょっと不満があったようです。お互いにやりづらかったんじゃないでしょうか。でも、鞍馬天狗のネタを拾って伸ばしてくれたのは、マエタケさんです。とっても感謝してます。 マエタケさん時代に生まれたのが、大喜利メンバーのカラフルな着物と、今も流れているオープニングテーマです。オープニングテーマは中村八大さんの作曲で、今はメロディしか流れていませんが、歌詞もあるんです。「ゲラゲラ笑って見るテレビ」で始まるんですけど、作詞したのはマエタケさんで、ご自分で歌っていました。●三代目司会者・三波伸介さん(1970年12月~1982年12月) 50代以上の方にとっての「笑点」は、三波さんが司会のときのイメージが強いかもしれませんね。歴代最高視聴率の40.5%(ニールセン調べ、関東地区)を記録したのも、三波さんが司会をなさっていた1973年のことです。 あの方は、ぼくたち大喜利メンバーの個性を引き出しつつ、全体を楽しく盛り上げる手綱さばきが見事でした。大衆演劇の出身でコメディアンですから、いろんな笑いの寸法が頭に入ってるんですね。歌丸さんと小園遊さんの罵り合いや、ぼくの「いやんばか~ん」が番組の名物になったのも、三波さんが上手にリードしてくださったおかげです。 若い頃に浅香光代さんの一座にいたこともあって、演劇にはめっぽう詳しかったですね。番組の特番で歌舞伎の『勧進帳』をやったときに、ひとりずつ細かい動きを振りつけてくれたのはビックリしました。セリフから見得の切り方から、全部頭に入っているんです。三波さんのお得意のフレーズじゃないけど、「ビックリしたなあ、もう」でしたね。 映画のこともよくご存じで、モノマネも得意でした。ぼくが大喜利で昔の映画スターのモノマネをやると、掛け合いでモノマネをかぶせてくれるんです。「丹下左膳」の大河内傅次郎さんの口調で「シェイはタンゲ、ナはシャゼン」なんて言ったりして。「笑点」が人気番組としてお茶の間に定着したのは、三波さんのおかげです。もっとたくさん、古い映画の話とかしたかったですね。●四代目司会者・三遊亭圓楽さん(1983年1月~2006年5月) 三波さんの次が、先代の五代目三遊亭圓楽さんです。番組が始まったときからの大喜利メンバーでしたが、「落語に専念したい」と言って、1977年に番組を一回「卒業」しました。三波さんが急死して、司会者として戻ってきてくれたんです。 本人は「最初は2回だけのピンチヒッターって約束だったんだ」と言ってましたが、それから23年にわたって司会を務めました。今のところの最長記録です。圓楽さんに戻ってきてもらうのは、大喜利メンバーの願いでもありました。 圓楽さんは「落語界をどうにかしなければいけない」と、いつも考え続けていました。幕末の志士みたいに熱い想いを持った人でしたね。「笑点」を降りたちょっとあとに、師匠である六代目三遊亭圓生師匠とともに落語協会を飛び出したんですけど、それから1年ちょっとで圓生師匠が亡くなりました。 今さら協会に戻れないから自分の一派を作って、弟子たちに修行させる場が必要だからと、大きな借金を背負って「若竹」という寄席も建てたんです。結局「若竹」は4年半で閉めることになりましたが、番組の中では長くネタになっていましたね。 司会を長く続けたのも立派ですけど、「笑点」におけるあの方の最大の功績は、六代目三遊亭円楽さんと三遊亭好楽さんをメンバーに入れたことですね。ふたりが長くメンバーを続けているってことは、圓楽さんの見る目が確かだったってことです。それにしても、いくら番組の最初から関わっているとはいえ、出演者が人事をいじれたというのがすごいですよね。●五代目司会者・桂歌丸さん(2006年5月~2016年5月) 桂歌丸さんも、番組が始まったときからの大喜利メンバーです。2018年にお亡くなりになりましたが、その後も「永世名誉司会」の肩書を背負ってらっしゃいます。 あの方は「横浜バカ」でしたね。玉置宏さんから引き継いで「横浜にぎわい座」の館長をやったりとか、生まれ育った横浜をとても大事にしていました。にぎわい座でぼくと木久蔵の親子会をやったときは、とても喜んでくれましたね。会話に「横浜」って単語を入れるだけで、ニコッと笑うんです。「横浜のシウマイ弁当おいしいですよね」なんて言ったら、「そうそうそうそう!」ってすごく嬉しそうな顔をして。 あまり表に出していませんでしたけど、ぼくと同じ「チャンバラバカ」でもあったんです。このあいだ歌丸さんのご長女が、ぼくのところにチャンバラ映画のVHSのビデオを段ボールに3箱くださったんです。なかには封を切っていないのもありました。いつか見ようと思って買ってたんですね。 落語に対する情熱は言わずもがなで、古典落語を一生懸命に勉強して、自分だけの「歌丸節」を確立したのはすごいことです。ただ、若い時分から病気をたくさん抱えていて、お酒は飲まなかったんですけど、薬をたくさん飲んでいました。 以前は番組収録後にお蕎麦屋さんで打ち上げをやっていたんですが、そこには参加しませんでしたね。付き合いが悪いわけではなく、身体をかばっていたんだと思います。●六代目司会者・春風亭昇太さん(2016年5月~現在) 歌丸さんに代わって春風亭昇太さんが司会者になって、もう6年近くになるんですね。早いもんです。次は誰を司会にするのがいいかって話のときに、歌丸さんが「番組を若返らせるには昇太さんがいいよ」と推薦したらしいです。 昇太さんの司会は、とってもやりやすいですね。手を挙げて目が合うと、「はい、木久扇さん」ってパッと指される。歌丸さんは「木久ちゃん3回」「好楽さん2回」とかって、きちっと計算しながら指してました。でも昇太さんは、自然な流れでどんどん指しちゃう。いっぱい答えさせて、あとは編集に任せるんですね。答えるこっちは伸び伸びとやれます。 今年の初めから、新メンバーの桂宮治さんが入りました。彼のおかげで「笑点」に新しい笑いの波がやってきて、また次の時代がスタートしたと感じています。ぼくもまだまだ負けてはいられません。おバカパワーを炸裂させて、これからもがんばります!【プロフィール】林家木久扇(はやしや・きくおう)/1937(昭和12)年、東京日本橋生まれ。落語家、漫画家、実業家。1956年、都立中野工業高等学校(食品化学科)卒業後、食品会社を経て、漫画家・清水崑の書生となる。1960年、三代目桂三木助に入門。翌年、三木助没後に八代目林家正蔵門下へ移り、林家木久蔵の名を授かる。1969年、日本テレビ「笑点」のレギュラーメンバーに。1973年、林家木久蔵のまま真打ち昇進。1982年、横山やすしらと「全国ラーメン党」を結成。「おバカキャラ」で老若男女に愛され、落語、漫画、イラスト、作詞、ラーメンの販売など、常識の枠を超えて幅広く活躍。『昭和下町人情ばなし』『イライラしたら豆を買いなさい』『木久扇のチャンバラ大好き人生』など著書多数。最新刊は『バカのすすめ』(ダイヤモンド社)。波瀾万丈なバカ色の人生を振り返りつつ、バカであることの大切さ、バカの強さ、愛されるバカになる方法を伝授する。「生きづらさ」を吹き飛ばしてくれる一冊!
2022.03.20 16:00
NEWSポストセブン
「談志」を継ぐ気がなくなった理由は?
志らくが語る談志「生き様は真似できない。芸だけは引き継いでいきたい」
 伝説の落語家・立川談志の愛弟子だった立川志らくは、没後10年、片時も師匠のことを忘れたことはなかったという。志らくは今、多くの弟子や孫弟子を抱える。彼らを教育するうえで、談志の教えをたびたび思い出すという。立川志らくにインタビューを行った。【全3回の第3回】 * * * 談志は「落語を上手くやるってのは訳ないんだ、いかに下手にやるかが大変なんだ」というのが持論でした。けれど一方で私が若手の頃には、「上手くやるのはいつでもできると思っているだろうけど、そうじゃない。それが年齢とともにできなくなることもあるから、今のうちに上手くやるということをやっておかないとダメだ」とも言っていました。どちらの意味も当時は分かりませんでしたが、今なら理解できます。 基礎もできていないのに他の落語と違うことをやりたがり、早々と自分で考えたギャグを入れたりする弟子がいっぱいいるけど、それはその場しのぎでしかない。一部のファンに受けているだけで、世間で勝負したらだれも聞いてくれません。 やっぱりまずは上手くやることを追求するのが大切で、私も前座の頃はとにかくきちんと基本通り、一切のギャグも入れずにやっていました。談志が「イリュージョン落語」のように既存の落語から逸脱して「いかに下手にやるか」を追求するのは、その先のことだったんです。 談志は、「価値観の共有」ということも言っていました。談志は昇進試験で落語のほかに歌や踊り(歌舞音曲)を課題としていましたが、いくら練習して歌や踊りの師匠がOKだと言っても、ダメだということがよくありました。 談志が言っているのはテクニックを習得することじゃなくて、「好きになれ」ということ。「下手でもいいから好きになれ」と、それが伝わってくると談志はOKを出すんです。同じものを好きになるということこそが、価値観の共有なんです。 師匠のいろんな言葉を聞いて、間近で学んで、価値観を共有したからこそ、今も私の中に談志がいる。テレビの視聴者には、もはや談志を知らない世代もいるでしょう。そうした世代に談志の凄さを語り継ぐことが、自分の役目だと感じています。 亡くなって10年経って思うのは、芸は真似できても生き様までは真似できないということです。あんなに悶え苦しみながら生きるのは、常人ではありません。生前、談志は「お前は俺に似ているからいつか狂うだろう」と言っていましたが、私はテレビというオモチャを見つけて、小さな子供の前ではマイホームパパでいることで、その苦しみから逃れられた。 よくテレビで炎上するから「さすが談志の弟子だ」って言われますけど、炎上のレベルが違う(笑)。私はまっとうなことを言って炎上するだけだけど、談志は非常識なことを言って炎上する。なにせ人殺しまで正当化するんですから。あんなふうに思っていることをずけずけ言って、街を歩いている時もそこらの人まで怒鳴りつけるなんてできっこない。一時は真似ようと思いましたが、無理だと分かったら気が楽になりました。生き様まで真似する必要はない。ただ、談志の芸だけは引き継いでいきたいと思います。【プロフィール】立川志らく(たてかわ・しらく)/1963年、東京生まれ。1985年に立川談志に入門。1995年、真打昇進。『全身落語家読本』『雨ン中の、らくだ』など著書多数。『ひるおび!』ほかテレビ出演多数。12月25日に、高田文夫氏が企画する「第四回オール日芸寄席~おっと天下の日大事~」(有楽町・よみうりホール)に出演予定。※週刊ポスト2022年1月1・7日号
2021.12.23 16:00
週刊ポスト
立川志らくが振り返る談志との関係「他の弟子より明らかに可愛がられた」
立川志らくが振り返る談志との関係「他の弟子より明らかに可愛がられた」
 テレビの世界でも大人気となった落語家・立川志らく。志らくが、伝説の落語家・立川談志の愛弟子だったことを知らない世代も増えているかもしれない。志らくは日本大学芸術学部演劇学科で落語研究会に所属。1985年、サークルのOBである高田文夫氏の紹介で談志に入門した。当時を振り返る立川志らくインタビュー。【全3回の第2回】 * * * 私は昭和の名人、古今亭志ん生の長男である金原亭馬生師匠の弟子になりたいと思っていたんですが、1982年に亡くなってしまいました。意気消沈しましたが、その時、亡くなった馬生師匠の思い出話を寄席で語る談志を見て、落語に対しての愛情の深さを感じました。この人の落語を聞かないといけないと、寄席に通い出したんです。それまでは口の悪い議員タレントぐらいの認識しかなかった。それがすごい落語をしていて驚きました。 でも談志はその翌年には落語協会を脱退して立川流をつくったので、寄席には出られない。しかも上納金まで取る。なにより、談志が怖い。弟子になるのは本当に嫌だったけど、本当に芸が好きなのはこの人しかいない。大学4年の頃は、その葛藤の日々でした。 その頃、高田文夫先生が落研の合宿に来て、20人くらいいる部員の中で私の落語を聞いて、「才能あるのはお前だけだ。落語家になっちゃえ。なったら売れるよ」と言ってくれました。「誰の弟子になりたいんだ」と聞かれて、ちょうど高田先生がビートたけしさんと一緒に談志の弟子になった直後だったので、反射的に「先生と同じです」と答えました。「いいセンスしてんなお前。俺が談志の弟子にしてやるよ」と言われ、そのまま弟子入り。当時の談志は、小さん師匠を裏切った形で独立して落語ファンの敵になっていたから、高田先生もそんな言い方をしたんでしょう。 いざ弟子になってみると、想像を絶しました(笑)。こちらは緊張して口もきけないし、向こうはひたすら小言ばかりだし。私は音楽一家の倅で怒鳴られた経験なんてないし、家のことは何一つせず、シャツ一つ畳んだことがない。のほほんと育てられてきたのが、弟子になった途端に、マーガリンのナイフを刺したまま冷蔵庫に入れただけで「ばか野郎! この野郎!」と怒鳴られる。一挙手一投足に緊張して何をしていいのか分からなくなりました。 けれど、そのうち他の弟子より明らかに可愛がられるようになりました。誰よりも早く落語を覚えたからです。「落語を二席覚えてこい」と言われたら四席覚えていく。そうしたら「おっ」となるでしょう。家事や用事を完璧にこなすけど芸事がダメな弟子と、雑用はできないけど芸事をしっかり覚える弟子、どっちが愛いやつかといえば、それは後者ですよ。「こいつはいい、こいつはダメ」と言う時に、やたら私の名前ばかりを出す。バランスを考えれば他の弟子の名前を出せばいいのに、そうはしない。そこは小さん師匠を反面教師としていたんだと思います。談志は小さん師匠について、「俺だけ可愛がっておけばよかったんだ」と言っていました。小さん師匠は、弟子は平等に可愛がり、極めて日本人的な教育をしました。それに反発した談志は、弟子に対して露骨に依怙贔屓をした。 もちろん、他の弟子からは嫉妬、やっかみがありましたし、いじめも受けました。先輩たちより早く二つ目になろうとした時に、兄弟子たちはみんな「ふざけんな」と怒りましたが、談志は「あいつはクリアしたからいいんだ」と突っぱねた。結局、(立川)談春兄さんと遊んでいて油断したところで、後片づけを忘れて帰ってしまって師匠をしくじってしまい、「お前はまだ二つ目には早い」となっちゃいましたが。 落語の難しいところは、面白いやつはだいたい最初から面白いんですよ。談春兄さんは10代の頃からこんな上手い人はいないと思ったし、春風亭昇太さんも柳家喬太郎も、最初に会った時から面白かった。売れるっていうのは、才能のあるやつが稽古して蓄積してきたものが、いつか分からないけど爆発するということで、稀に年を取ってから花が開く場合もあるけど、ほんの一握り。だから談志は依怙贔屓をしたし、そこは弟子を育てるうえで、私自身も考えるところですね。(第3回につづく)【プロフィール】立川志らく(たてかわ・しらく)/1963年、東京生まれ。1985年に立川談志に入門。1995年、真打昇進。『全身落語家読本』『雨ン中の、らくだ』など著書多数。『ひるおび!』ほかテレビ出演多数。12月25日に、高田文夫氏が企画する「第四回オール日芸寄席~おっと天下の日大事~」(有楽町・よみうりホール・前売6000円=全席指定・主催ワタナベエンターテインメント https://www.watanabepro.co.jp/liveinfo/12591) に出演予定。※週刊ポスト2022年1月1・7日号
2021.12.22 16:00
週刊ポスト
「談志」を継ぐ気がなくなった理由は?
立川志らくインタビュー「談志という名前を継ぐ気はなくなりました」
 いまやテレビでその姿を見ない日はない立川志らく。彼が伝説の落語家・立川談志の愛弟子だったことを知らない世代も増えていることだろう。だが志らく自身は、没後10年、片時も師匠のことを忘れたことはなかったという。志らくにインタビューを行った。【全3回の第1回】 * * * 談志が死んで10年が経ちますが、亡くなった時に談志が自分の中に降りてきて、今も日々対話をしているので、月日が経った実感はありません。それは魂がどうのといったスピリチュアルな意味ではなく、伝統芸能というものは各々の弟子の中に師匠が残って、芸を極めていくものだと思っているので。 いつも高座が終わった後に、心の中で「師匠、今日はこんな落語をやりましたけどどうですか?」と問いかけて、「あそこがダメだ、ここがダメだ」と怒られるんじゃないかとか、これなら「よくやったな」と言ってくれるんじゃないかとか、いろいろ相談しながらやっています。 談志の師匠にあたる柳家小さん師匠が亡くなった時に、談志が葬式に出なかった理由を聞かれて「小さんは心の中に生きている」と言っていた意味が、今はよく分かります。談志は落語協会会長だった小さん師匠に反発して協会を飛び出して、立川流をつくりました。それでお葬式にも出なかったから、2人の関係を分からない外野からはいろんなことを言われました。しかし談志の真意は、伝統芸能において師匠は死ぬものではないということだったのです。〈この10年で志らくには大きな変化があった。ワイドショーやバラエティなど、テレビに出る機会が増えて認知度が上がったことだ〉 今の姿を、談志はきっと喜んでいるはずです。 談志が生きていた頃は、テレビに興味がなかった。テレビに出なくても落語だけやっていればそれでいいんだと思っていたし、妙に名前が売れてしまうとイメージが固定化されて、落語がやりづらくなると分析していた。しかし、談志が亡くなった後、私の知らないところで「あいつはなぜテレビに出て売れようとしないんだ」「なぜ全国区になろうとしないんだ」と言っていたことを知りました。「テレビに出るくらいで落語家としての芸がダメになることはない」ということだったのでしょう。 だから、今の私を見ても、「当然だろう」と言うくらいで、ビックリはしないと思います。もっとも、テレビばっかりやっていると「いつまでも遊んでいるんじゃねえよ」と言うだろうし、コメンテーターとして常識的なことばかり言っていると、「もっと非常識なところで生きろ」と言うだろうとは想像できます。 思い出すのは、ある独演会のトークショーの時に「談志の名前は誰に継がせるんですか?」と司会者が談志に尋ねた時のことです。しばらく考えた談志は、舞台袖にいる私に「出てこい」と呼びかけました。洋服姿でしたが呼ばれたので出て行くと、そのタイミングですから会場は大盛り上がりです。 私も内心、もしかしたら、「談志を継ぎたいならお前が継いでいいよ」と言われるのかなと思っていたら、「別に継ぎたいやつが継げばいいんだけど、(立川)志の輔じゃないと世間が許さないだろう。お前がどうしても継ぎたきゃ継いでもいい」という言い方をしたんです。なんでわざわざ私を舞台に呼び出したのか、恥をかかせるためなのか。当時ネットにも書かれましたよ、「志らく涙目になる」と。 その時は分からなかったけど、当時から志の輔兄さんは全国区の知名度があり、志らくはそうではなかった。談志がよく言っていたのは「大きい名前を襲名するのは影響力のないやつばっかりだ」と。このまま私が継いでも、そうなっちゃうよということでしょう。志の輔兄さんと同じくらい売れていれば、もし継いだ時に周囲も「ああ、そうか」と言ってくれるだろうと。これも死んだ後に気付いたことです。 もっとも、今は談志を継ぐ気はなくなりました。かつては談志という名前を継げば全国区になるというスケベ心がありました。師匠からこれだけ可愛がってもらってるんだから自分が継ぐべきだという思いもあった。 けれど、談志は件のトークショーで「弟子に名前を継がせた場合、談志さんは名前はどうするんですか?」と聞かれて、「名前なんてもうどうでもいいんだ、クリスマスでいい。立川クリスマスでいい」と言ったんです(笑)。志らくだろうがなんだろうが、売れちゃえば名前なんてどうでもいい。それより自分が落語家としてどうなるかが今は大事です。(第2回につづく)【プロフィール】立川志らく(たてかわ・しらく)/1963年、東京生まれ。1985年に立川談志に入門。1995年、真打昇進。『全身落語家読本』『雨ン中の、らくだ』など著書多数。『ひるおび!』ほかテレビ出演多数。12月25日に、高田文夫氏が企画する「第四回オール日芸寄席~おっと天下の日大事~」(有楽町・よみうりホール・前売6000円=全席指定・主催ワタナベエンターテインメント https://www.watanabepro.co.jp/liveinfo/12591)に出演予定。※週刊ポスト2022年1月1・7日号
2021.12.21 11:00
週刊ポスト
「小よし」時代の立川談志
高田文夫氏の胸がしめつけられた 「17歳の立川談志の日記」
 放送作家、タレント、演芸評論家で立川流の「立川藤志楼」として高座にもあがる高田文夫氏が『週刊ポスト』で連載するエッセイ「笑刊ポスト」。日記ブームが来ているという高田氏が、17歳の立川談志による日記についてつづる。 * * *『藝人春秋Diary』(水道橋博士)の推薦の帯文を書いてからというもの私の中では日記ブームが来ている。先週この連載で和田誠の手書きの日記本(17歳から19歳)『だいありぃ』が素晴しいと書いた。そこへ慌てたように届いた本には“談志 17歳”の文字が。衝撃である。「17歳」と言って通るのは南沙織か森高千里である。 和田誠に17歳の時があったように談志にも17歳の時があったのか。小さんに16歳で入門して前座2年目の修業時代である。本名が松岡克由だから師匠から「小よし」と付けられた。18歳で二ツ目となり「小ゑん」。この頃からテレビにも出始め、私は『歌まね読本』の小ゑんちゃんをよく覚えている。私が知っているのは小ゑんからだ。27歳で真打昇進「立川談志」を名乗る。それを見ていた15歳の私も嬉しかった。 この本は私が知らない時代、小よしの談志だ。あまりにもピュアすぎて、ギュッと抱きしめてあげたくなる。なにやら同級生の松岡クンの青き人生に伴走しているようだ。談志の長男・慎太郎のあとがきによると、この17歳の時から最晩年まで、キッチリ毎日のように日記はつけていたというから驚きだ。入退院を繰り返していた2010年頃「これはいずれ本になるだろうから」と70冊あまりの日記帳を編集者に託したと言う。なんでオレに託さなかったのだろう。『談志の日記 1953 17歳の青春』(dZERO)。自分が好きな人の日記をのぞくというのは本当にドキドキする。30代40代、私と会った時の日記も見てみたいものだ。17歳の日記は格別に胸しめつけられる。「人形町で一〇〇円小さんに小遣をもらう。しかしその場でなくす。(中略)その場で探すのも失礼だからよした」。クゥ~ッ泣けてくるネ。この気のまわし方が切ない。私なぞ17歳の時、みゆき族だエレキだと遊びまわっていた。「僕には夢を追うのみで、若さを楽しむ資格がないのであろうか。悲しい。その原因は落語なのだ。僕の宿命なのかも知れない」 時にはこんなのも。「何か急に老ひ込んでしまった様だ。十七才でも僕にはもう青春は終りの様な気がする。さようなら女学生。女学生は永遠に僕の友であり、あこがれである。もう一度!」 あの談志師匠がこんな日記をずっとつけていたなんて……衝撃である。そう言えば「“古川ロッパ日記”はよく出したネ。あれは凄いな」とやたら私にすすめていたっけ。自分だってずっとつけていたのだ。またやられた。イラスト/佐野文二郎※週刊ポスト2021年12月3日号
2021.11.26 11:00
週刊ポスト
太田が暴走しても田中が止めるスタイル(時事通信フォト)
太田光「選挙特番」大暴走で見直される相方・田中裕二の大切さ
 お笑いコンビ「爆笑問題」の太田光が、10月31日に放送されたTBS系の『選挙の日2021 太田光と問う!私たちのミライ』で選挙特番の司会に初挑戦、その大暴走ぶりが物議を醸している。苦戦が伝えられた甘利明氏に「もし負けたら戦犯ですよね」「ご愁傷さまでした」と笑いながら語りかけ、二階俊博氏には「いつまで政治家続けるつもりですか」と質問。二階氏は「当選したばかりで失礼だよ、言葉を選びなさい!」と憤慨した。SNS上では「太田ぶっ込んでて面白い」と評価する声もあるが、「失礼にも程がある」「放送事故レベル」といった批判が相次いだ。 書き込みのなかには、「やっぱり田中あっての太田なんでしょうね」「昔から田中の存在を軽視してる人がいるが、田中が居ないと成り立たない」と、相方・田中裕二の存在に言及する声もあった。放送を観ていたテレビ局関係者も、田中の存在の大きさをあらためて認識したという。「太田さんのフォローをしようと井上貴博アナや小川彩佳アナも頑張ってはいましたが、いかんせん太田さんの速射砲のようなしゃべりを制止できていませんでした。相方の田中さんがいてくれたら、『失礼すぎるだろ』『いい加減にしろ』といったツッコミで場を収めていたはずです。 今回の太田さんの起用は、『太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中。』(日本テレビ系、2006~2010年)で政治への関心の高さを見せたことに加え、『サンデー・ジャポン』(TBS系)でも生放送の実績があることからTBSが白羽の矢を立てたのでしょうが、いずれも田中さんの制御あっての太田さんだった。今回のことで、爆笑問題にとっていかに田中さんが重要な存在かを業界関係者は再認識したのではないでしょうか」 太田に比べて地味な存在で、時に「じゃないほう芸人」に括られることもある田中だが、その仕切りやツッコミのうまさには定評があると、ベテラン芸能ライターは言う。「すごいスピードでしゃべり続ける太田さんの間隙を縫って話すのは非常に難しく、今回の特番でも共演者はみな苦戦していました。田中さんがふだんいかに絶妙なタイミングでツッコミを入れているかがよく分かります。『なんでだよ』『やめろよ』など最小限のフレーズしか発しないのも、太田さんのテンポに合わせて工夫しているのだと思います。 爆笑問題を高く買っていた故・立川談志師匠は生前、太田さんに『絶対に田中は切るな』と言い聞かせ、『田中は日本の安定だ』『お前みたいな感じでやるんだったら日本の安定が必要だから』と話したそうです。今回の太田さんの暴走ぶりを見ていると、まさに談志師匠の言っていたとおりだなと痛感させられます」
2021.11.01 16:00
NEWSポストセブン
立川談志が亡くなってからもう10年
談志・没後10年 高田文夫が振り返る「落語の師匠」「心の兄貴」の思い出
 放送作家、タレント、演芸評論家で立川流の「立川藤志楼」として高座にもあがる高田文夫氏が『週刊ポスト』で連載するエッセイ「笑刊ポスト」。没後10年、落語の師匠であり芸能界の親分であり、ロック魂的には心の兄貴でもあった立川談志についてつづる。 * * * 自分で考えていた戒名が「立川雲黒斎家元勝手居士」。“うんこ・くさい”なんて事を死ぬまで言ってる大人なんてこの師匠しかいない。お墓にはきちんとこの戒名が刻まれている。 10年前「談志が死んだ」(下から読んでも)の文字が紙面に大きく……。2011年(平成23年)11月21日死去。享年75。そうかあれから10年たつのか……談志の写真を見ながら、柄にもなくしみじみしてしまう。私だってあと2年もすりゃ75なのだ。自分は何をしてきたかなと考えてしまう。 立川談志は私の落語の師匠であり芸能界の親分であり、ロック魂的には心の兄貴でもあった。談志が亡くなった丁度ひと月後私の一番弟子を自負していた天才映画監督森田芳光が亡くなった。大震災のあったあの年の最後である。このタイミングでやたら「談志師匠没10年」「森田監督没10年」この機に乗じてってのも変だが中には「2001年高田さんの盟友古今亭右朝が亡くなってすぐにその師である志ん朝師が亡くなり、あのニューヨークテロからも20年。何かコメントを……短い想い出エッセイなど?」なんて依頼が続く。 立川談志は1936年(昭和11年)東京市(この表記が古いネ)小石川区に生まれる。私の記憶が確かなら同い年は長嶋茂雄、故・桂歌丸、故・東八郎のはず。1952年に16歳で柳家小さんに入門。「なんで小さん師匠を選んだの?」ときいたら「清潔そうな芸風が好きだった」と言った。 本名が松岡克由なので「小よし」。1954年二ツ目に昇進「小ゑん」と名乗る。私は1962年あたりに小ゑんの名で司会をやっていた『歌まね読本』をずっと見ていた。ヒットCMは“ホンコンやきそば ホンコンにうまいよ”これでもう私のハートはわしづかみにされた。1963年志ん朝に抜かれて頭にきて立川談志で真打昇進。1965年には新宿紀伊國屋ホールで『立川談志ひとり会』スタート。私も客席へせっせと通い始める。この頃、マスコミから有望な若手という事で“若手四天王”と呼ばれる。「純烈」みたいなことか。志ん朝、談志、柳朝、圓楽である。ああもう字数が。 これから国会議員になったり、師である小さんにヘッドロックして落語協会を辞めたり、そこへ助けに現われたのが私で、作家をやりながら弟子になり「立川藤志楼」を名乗って大ブレイク。そんな10年で命日にあわせ本もたくさん出ます。CDもテレビも。かつて談志が書いた紀伊國屋社長『酔人・田辺茂一伝』が文庫化され私が解説書きました。イラスト/佐野文二郎※週刊ポスト2021年10月8日号
2021.09.29 19:00
週刊ポスト
師匠・立川談志の演出とは異なる談笑の『富久』(イラスト/三遊亭兼好)
立川談笑 改作の域を超えた普遍性を持つドンデン返し『富久』
 音楽誌『BURRN!』編集長の広瀬和生氏は、1970年代からの落語ファンで、ほぼ毎日ナマの高座に接してきた。広瀬氏の週刊ポスト連載「落語の目利き」より、師匠の立川談志に準じながらも、まったく異なる演出を創作した立川談笑の『富久』についてお届けする。 * * * 立川談志の「暮れの大ネタ」と言えば晩年は『芝浜』のイメージが強かったが、昔はむしろ『富久』のほうが印象的だった。談志は幇間の久蔵に徹底的に感情移入してドラマティックに演じ、ハッピーエンドで大きなカタルシスをもたらした。 談志の『富久』は志ん生系の演出をベースにしていたが、談志の弟子である立川談笑は、地名や富くじの番号などは談志に準じながらも、まったく異なる演出の『富久』を創作した。時代設定は古典のままで新解釈を施した談笑の演目の中でも『富久』は改作の域を超えた普遍性を備えている。その『富久』を談笑は昨年12月の月例独演会で演じた。 大事な近江屋の旦那をしくじり、幇間で食べていけなくなった久蔵は、暮れにきて「大神宮様のお祓い」を詐称して小銭を稼いでいる。知人から千両富の札を買い、長屋の神棚に収めた夜、近江屋へ火事見舞いで駆けつけて出入りを許された。 だが、鎮火を祝って来客と酒を飲み、場を盛り上げようと調子に乗り過ぎて旦那を怒らせ、「やっぱり出入り止めだ!」と追い出されてしまう。ボロボロになって辿り着いた長屋は火事で全部焼けていた。隣人が言うには火事場泥棒が大八車で久蔵の家財道具を持ち去ったという。「神主の真似事をしたからバチが当たったのか。きっと千両当たってるんだろ! 長屋ごと札が燃えて悔しがらせるんだろ!」と天に向かって怒鳴り、その足で富くじの会場に行くと、案の定千両当たっていた。 だが「火事で札が燃えたんならいいんだよ。売った側が証言するから」と意外な言葉。大喜びの久蔵だったが「盗まれたんならダメだけどね」と言われて愕然。「千両は札を持って来た人のものだから」「でも札を持って来る奴は泥棒ですよ!」「いや、善意の第三者の可能性もある。持参人払債権っていって……」 絶望した久蔵が歩いていると、近江屋の番頭に出くわす。「久蔵、探したぞ! 旦那はもう怒ってない。あの後すぐ、長屋が火事だって聞いて若い連中が飛んでったんだが、お前がまだ帰ってなかったから、家財道具を全部うちに運んである……え? 大神宮様のお宮? あるよ」 近江屋へ行き、お宮を開けると札はあった。「千両か! 久蔵、お祓いの真似事なんかしてよくバチが当たらなかったな」「いえ、バチが当たったんです」「バチが当たった?」「だって私はタイコですよ。バチが当たれば音(値)が出ます」 ドンデン返しに次ぐドンデン返し。この演出が次代に継承されれば、『富久』に“談笑系”という新たな系統が生まれることになるだろう。【プロフィール】広瀬和生(ひろせ・かずお)/1960年生まれ。東京大学工学部卒。音楽誌『BURRN!』編集長。1970年代からの落語ファンで、ほぼ毎日ナマの高座に接してきた。2020年1月に最新刊『21世紀落語史』(光文社新書)を出版するなど著書多数。※週刊ポスト2021年1月29日号
2021.01.20 19:00
週刊ポスト
立川流の新年会 談志を喜ばせることが最大の験担ぎだった
立川流の新年会 談志を喜ばせることが最大の験担ぎだった
 日本に脈々と残る“験担ぎ”。その道の「プロ」として、長い歴史の中で成功を重ねてきた人々はどんな験を担いでいたのだろうか。それをひもとくと、幸せへの近道が見えてくるはず……。 江戸時代からの長い歴史を持つ落語にも験担ぎがある。まずは、林家一門・海老名家の年越しに関する験担ぎだ。「先代の林家三平さん(享年54)・海老名香葉子さん(87才)夫妻の代から、大晦日に一門の落語家や取材関係者を呼んで、夜通しで宴会をするのが恒例なのですが、元日には獅子舞を呼び、一門の皆の頭をかじらせ、その年の健康と発展を願うそうです」(落語関係者) 獅子舞が「噛みつく」のは「神がつく」と置き換えられ、縁起物とされる。獅子の置物を家に置くだけでも厄除けの意味はあるという。 7代目立川談志さん(享年75)が創設した「立川流」にも、こんな験担ぎが。立川流の落語家で『デキる人はゲンを担ぐ』(神宮館)の著者・立川談慶さんは次のように語る。「師匠談志の誕生日でもある1月2日には新年会が行われますが、その前に一門全員で紋付袴を着て根津神社(東京・文京区)にお参りをします。師匠は神仏に頼らないかたですが、奥さんの病気を治してくれたと大切にして、毎日参拝していました。 新年会では北原謙二の『ふるさとのはなしをしよう』と関敬六の『浅草の唄』を一門全員で歌って踊りました。歌も踊りも師匠が大好きだったもの。立川流にとっては“師匠を喜ばせること”そのものが、最大の験担ぎでした」※女性セブン2021年1月8日号
2021.01.02 16:00
女性セブン
爆笑問題・田中裕二 立川談志も才能を認めた「男前」伝説
爆笑問題・田中裕二 立川談志も才能を認めた「男前」伝説
 お笑いコンビ「爆笑問題」といえば、どうしても太田光(55才)ばかりが注目されがちだが、相方の田中裕二(55才)も超が付く売れっ子。最近では、みのもんたに代わって『秘密のケンミンSHOW』の司会にもついた。田中の魅力について、放送作家の山田美保子さんが分析する。 * * *故・立川談志さんも「このチビを切るなよ」と認めた才能 爆笑問題の田中裕二サンが新型コロナウイルスに感染。テレビやラジオに10本ものレギュラー番組をもつ田中サンだけに、各局対応に追われることとなりました。爆笑問題の“顔”と言えば、小説執筆から作詞、映画の監督まで、才能あふれる相方の太田光サンの方で、田中サンはいわゆる“じゃない方”だと思っているかたがいらしたら、全力で否定させていただきます! それは、デビュー間もない爆笑問題の才能を見抜き、太田サンに対し、「このチビ(=田中サン)は絶対切るなよ」と伝えた故・立川談志サン(享年75)の“お見立て”でもあるのです。 このエピソードを、以前、『1周回って知らない話』(日本テレビ系)で共演させていただいた際に話したら、太田サンはヒナ壇にいる私の方を振り返り、本当にうれしそうにしておられました。天才的“暴走”をする太田サンを止められるのは田中サンだけであり、田中サンが傍らにいらっしゃるからこそ、太田サンは暴走できる。僭越ながら、私も談志師匠と同じように、おふたりのことをずっと見させていただいていました。 でも、おふたりがお茶の間の人気者になるには時間がかかったものです。1999年、私がチーフ作家で入っていて、爆笑問題のおふたりにMCをしていただいていた『スパスパ人間学!』(TBS系)の頃は、美容や健康情報に特化しているのにF(女性)の視聴率の数字がなかなか取れず苦労したものです。 とはいえ、太田サンも田中サンも、共演女性や私のような女性スタッフにすごくやさしくしてくださいました。特に田中サンはやさしくて、打ち上げのようなとき、坂下千里子チャン(44才)の恋愛相談に真剣にのってあげていたことを思い出します。千里チャンは山口もえチャン(43才)と仲よしでしたから、田中サンともえチャンの結婚は、自然なことだったのかも、と思います。 おふたりとも再婚同士。田中サンの離婚については、お相手が一般のかただということだけではなく、田中サンが彼女を気遣い、沈黙を貫かれたことから、あまり報じられませんでした。芸能人同士だったら、けっこうな話だったと思うのですが、田中サンはグッとこらえた。このことは、同年代のお笑い芸人サンたちの語り草になっていて、田中サンの男らしさややさしさというストレートな評価につながっています。 田中サンともえチャンは、一見、「美女と野獣」カップルのようですが、そんなことはない! 本当にお似合いなんです。交際のうわさが出始めた頃、『踊る!さんま御殿!!』(日本テレビ系)に出演してくれたもえチャンが、明石家さんまサン(65才)からいじられて、「シー」と指を口にあてるも、デコルテまで真っ赤になって恥じらい、幸せそうだったのを見てゴールインを確信しました。 そうそう、数年前、表参道で平日の昼下がり、ランチデート後の田中サンともえチャンから声をかけていただいたことがあります。3人目の子供サンも一緒でした。もえチャンの“悩み”として、千秋サン(48才)や小倉優子サン(36才)らとの女子会の場に田中サンが同席してしまう…というのを聞いたことがありますが、いい意味で、田中サンはまったく邪魔にならないでしょうね。うらやましいです。 今回、保健所が指定した病院に家族5人で入院できたことは、コロナ対策が進んできたことの表れでもあるのでしょう。赤江珠緒サン(45才)や、有村昆サン(44才)・丸岡いずみサン(49才)夫妻のときは、本当に大変でしたからね。学生時代はアナウンサーを目指していた田中サン さて、実は田中サンとは、もっと前に、お目にかかっている私。新卒でTBSラジオの「954キャスタードライバー」に就いたとき、中継車の電波測定をしたり、音声チェック、スタジオとのつなぎなどをしてくれたのが、TBSラジオ内の「無線室」のバイトくんたち。その候補として来ていたのが大学生の田中サンでした。 当時の「無線室」は在京局のアナウンサーを数多く輩出していて、私が在籍中だけでも、NHKの渡部英美(←男性です)元・エグゼクティブアナウンサー、元・日本テレビの小倉淳サン(62才)、テレビ朝日の元アナウンサー、藤井暁サンがいらっしゃり、小倉サンや藤井サンは、久米宏サン(76才)の影武者として『ぴったしカン・カン』(TBS系)の予選の仕切りも担当していたかと。 そんな“ウワサ”を聞きつけて、先輩の紹介でやってきたのが田中サンだったというワケです。もちろん、その頃の田中サンもアナウンサー志望。高校時代、トシちゃん(田原俊彦サン・59才)やマッチ(近藤真彦サン・56才)を完コピし、校内の人気者だった田中サンは、アナウンサーにも向いていたと思いますが、太田サンと出会い、「爆笑問題」となるわけです。 田中サンのエピソードで大好きなのは、コンビニエンスストアでバイトをしていたとき、レジに並んでいるかたのカゴの中身を見ただけで素早く合計金額を計算できたという(笑い)。 そうした目配りと気配り、そして、アナウンサーを目指していたからこそのアナウンス能力は、『サンデージャポン』(TBS系)で度々見せていただいています。 まだ私が頻繁に出演させていただく前のことですが、妊娠中に出演していた吉田明世アナウンサー(32才)がスタジオで立ちくらみのような状態になったとき、スッと椅子を差し出して座らせてあげて、励ましの言葉をかけたのは田中サン。その後の進行の素晴らしさと、吉田アナが読むハズだった原稿をスラスラと読みまくった田中サンのアナウンス能力にも心から尊敬いたしました。 また、著名人の古すぎる(!)スキャンダルを克明に記憶していて、いらんタイミングで(笑い)ブッこんでくる太田サンに対し、きっちりツッコむと同時に、たしなめるのも田中サン。ほんと、多くの人が忘れてしまっている名前やエピソードなど、どれほどわかりにくいボケを太田サンがかましても、田中サンは100%、理解し、拾い、ツッコむのでした。 田中サンの加療中、太田サンがどこまで暴走してしまうのかは、心配でもあり、少し楽しみでもあります。田中サンが、あのみのもんたサン(76才)に代わってMCを務める『秘密のケンミンSHOW極』(読売テレビ・日本テレビ系)は、太田サンが助っ人となり、すでに1本収録をしたのだとか。実は、田中サンが単独で『ケンミンSHOW』のMCに決まったとき、太田サンはかなりうらやましそうだったのでね(笑い)。「テレビ界」に、「お笑い界」に、そして「太田サン」と「爆笑問題」に絶対必要な田中裕二サン。憎きコロナをやっつけていただき、また一緒にお仕事ができる日を楽しみにしながら、復帰をお待ちしております!◆構成/山田美保子『踊る!さんま御殿‼』(日本テレビ系)などを手がける放送作家。コメンテーターとして『ドデスカ!』(メ~テレ)、『アップ!』(同)、『バイキング』(フジテレビ系)、『サンデージャポン』(TBS系)に出演中。CM各賞の審査員も務める。※女性セブン2020年9月17日号
2020.09.04 16:00
女性セブン
立川志の輔 おめでたい噺『八五郎出世』を独自の演出とリアルな描写
立川志の輔 おめでたい噺『八五郎出世』を独自の演出とリアルな描写
 音楽誌『BURRN!』編集長の広瀬和生氏は、1970年代からの落語ファンで、ほぼ毎日ナマの高座に接している。広瀬氏の週刊ポスト連載「落語の目利き」より、師匠の立川談志が嫌った『八五郎出世』を独自な演出とリアルな描写で見せる立川志の輔のパルコ公演ついてお届けする。 * * * 渋谷パルコ劇場の新装オープンを記念して「志の輔らくご~PARCO劇場こけら落とし~」が1月24日から2月20日まで行なわれた(全20公演)。事前告知では『メルシーひな祭り』(フランス特使夫人と幼い娘が地方の商店街を訪れる人情喜劇)と「こけら落とし噺」の2席とされていたが、蓋を開けると「こけら落としの一席」の『ぞろぞろ』と『メルシーひな祭り』の他に「おめでたい一席」として『八五郎出世』も演じられた。 冒頭ではこけら落としの儀式として猿楽師に扮した志の輔が劇場の神様に捧げる三番叟を舞う趣向。『ぞろぞろ』は「神事」に相応しい噺として選ばれたのだろう。 商売繁盛を神に願った荒物屋に奇跡が起こり、真似した床屋が失敗する『ぞろぞろ』。立川談志はこれを「神様を登場させる」という斬新な演出で作り変え、「俗っぽい神様」の面白さで売り物にした。荒物屋を「父と信心深い娘」の二人暮らしという設定にしたのも談志オリジナルで、娘の描写がなんとも可愛かったのを思い出す。志の輔も「神様が登場する」枠組みは師匠に準じているが、神様にはそれほど俗っぽさはなく、また荒物屋を従来の老夫婦に戻している。確かにこの演り方のほうが志の輔には似つかわしい。 当初の予定になかった3席目として『八五郎出世』を入れたのは、志の輔自身があらゆる古典落語の中で最も気に入っているこの噺を、自分にとって最も重要な舞台であるパルコ公演で今まで一度も演じてこなかったことに気づき、まるでこの記念すべきこけら落としのために取っておいたような気がしたからだという。『ぞろぞろ』とは逆に談志が「嫌いだ」と手を着けなかった噺だが、志の輔は「ここぞ」という場面で『八五郎出世』を掛ける。去年の武道館でもそうだった。志の輔は冒頭から独自の演出をふんだんに加え、従来の「お約束」のやり取りを全面的に排除、八五郎が酒を飲む場面を集中的に描く。ここで志の輔が見せる「だんだんと酔っていく八五郎」のリアルな描写は絶品だ。母親を想い、妹を気遣う八五郎の台詞は全編オリジナル。笑いを交えながら聴き手を引き込み感動を高めていく展開の妙は「志の輔らくご」の真骨頂だ。 それまで黙って聞いていた妹のお鶴が口を開くラストの演出も独創的で、八五郎が武士に出世しないことでサゲているため『八五郎出世せず』と呼んだり『新・八五郎出世』と表記したりしていたが、今回は単に『八五郎出世』。ちなみにこの落語、弟弟子の立川談春も独特な演出で十八番としているが、演題としては『妾馬』の方を用いている。●ひろせ・かずお/1960年生まれ。東京大学工学部卒。音楽誌『BURRN!』編集長。1970年代からの落語ファンで、ほぼ毎日ナマの高座に接している。『現代落語の基礎知識』『噺家のはなし』『噺は生きている』など著書多数。※週刊ポスト2020年3月27日号
2020.03.19 16:00
週刊ポスト
「神田松之丞は若くて生意気で大嘘つき」と高田文夫氏エール
「神田松之丞は若くて生意気で大嘘つき」と高田文夫氏エール
 放送作家、タレント、演芸評論家で立川流の「立川藤志楼」として高座にもあがる高田文夫氏が『週刊ポスト』で連載するエッセイ「笑刊ポスト」。今回は、神田伯山襲名披露を控える講談師の神田松之丞についてお送りする。 * * * 兎にも角にも演芸界にとっては大きな慶事である(ケイジとケンジというのは今をときめく東出昌大の作品です、老婆心ながら……)。この2年程マスコミ的にはすっかりヒートアップした感のある“百年に一人の逸材”とハッタリをかます講談師、神田松之丞改め神田伯山の襲名である。当人がラジオで曰く、「マスコミとか芸能の世界であれこれ出たけど、結局味方は爆笑問題の太田光さんと高田センセだけ」と泣き売の手口をみせるが、太田だって私だって陰では一生懸命松之丞のマイナスキャンペーンをやっている。 これだけの勢いで真打に昇りつめ伯山を襲名するというのは、分かり易く言えば徳勝龍の幕尻優勝のようなものだ。芸界敵ばかり。若くて生意気で大嘘つきというのがなんともいい。芸人、若い時は小生意気ぐらいが丁度いい。私が伴走した立川談志もビートたけしもそりゃもう生意気だった。その鼻っ柱をへし折られなかったのが凄いのだ。そこに芸と大衆人気があったから一線のままいられた。日本人なら大好きなノーコンプライアンスなのだ。“講釈師みてきたような嘘をつき”。有名なフレーズだが松之丞の場合は、“講釈師みてきてさらに嘘をつく”である。ラジオ、高座から放たれる、池袋という中途半端な風土から生まれたであろう的はずれな薄い東京風味の毒ガスがチャーミングでもある。 さすがの私も講談の世界はそれ程知っている訳ではないが、松之丞が書いたり喋ったりしているのを読むと伯山代々は相当凄いらしい。初代は江戸講釈界に覇をとなえたとあり(広辞苑)十八番が「徳川天一坊」。川柳にも「伯山は天一坊で土蔵を建て」。弟子も80人いてとにかく売れた。三代目がとりわけ光っていて、人呼んで「次郎長伯山」。伯山が寄席のトリをとるとまわりは閑古鳥。俗にいう「八丁荒らし」。四代五代、さまざまあって六代目の誕生である。 2月9日には披露目のパーティー。扇子、手ぬぐいと共にあいさつ状も刷られ、そこには私、太田光、ジブリの鈴木敏夫そして師匠の人間国宝神田松鯉の推せん文が並ぶ。2月11日から10日間ずつ都内の各寄席で披露興行。新宿末広亭でスタートし、連日所属する落語芸術協会の昇太、小遊三、米助ら幹部も出演する他に、日替りのゲストとして鶴瓶、志らく、爆笑問題。私も17日に松村邦洋と“ものまね漫才風”の御祝儀高座を相勤めまする。いよいよ羽ばたく若武者を目撃して下さい。※週刊ポスト2020年2月21日号
2020.02.11 07:00
週刊ポスト

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