〈第一次世界大戦に参戦した日本は大正三年一一月にドイツの租借地であった青島を占領し、四千人余りのドイツ人将兵を捕虜として連行し、日本各地の収容所に隔離した。そのうち四国の愛媛県松山・香川県丸亀、徳島に分散していた九五三人が大正六年新たに設けられた板野郡板東俘虜収容所(現鳴門市)に収容された。兵士たちは青島で臨時召集された者も多く、さまざまな職歴を有し、技能をもつ者も多くいた。また収容所長松江豊寿は人道主義に基づき所内の運営を捕虜たちの自治にまかせたため、彼らは機関誌「ディ・バラッケ」を刊行したり、豚や牛の飼育やパンや製菓・乳製品づくりの方法を地元民に指導し、楽団を結成し演奏会を開いて徳島市内の西洋音楽愛好家らを集めて徳島エンゲル楽団を誕生させるなど、多彩な異文化間交流の実現に大きな役割を果した。〉
(『日本歴史地名大系』平凡社刊「徳島県」の項より)
つまり、エピソードもおおむね事実なのである。ただ、この事実について詳しく取り上げたのは小説家中村彰彦の『二つの山河』のほうが先(一九九四年、文藝春秋刊。第111回直木賞受賞作)であり、現在は『バルトの楽園』もDVDの説明書に『二つの山河』を参考資料として明記しているそうだ。また「バルト」とはバルト海のことでは無く、軍人の好んだ立派な口ひげを意味し、楽園は「がくえん」と読み「音楽の楽園」という意味があるようだ。
これらの作品で注目すべき点は、松江大佐が会津出身だということにドラマの力点が置かれていることである。幕末の戊辰戦争直後に生まれた松江は、父の所属する会津藩が奥州のまともに米も取れない斗南の地に「国替え」になったため、極貧の窮乏生活を強いられた。その体験がドイツ人捕虜に対するきわめて寛大で、その行動の自由をできるだけ尊重した態度につながったということだ。
政治情勢の変化によって「朝敵」にされてしまった会津出身の軍人は、薩長土肥の出身者と違って独特の個性を持っている。「会津守護職始末」を世に問うて主君松平容保の汚名を雪いだ山川浩、『北京の55日』で会津若松城の経験を活かし北京を守り抜いた柴五郎、そしてこの松江豊寿である。彼らの共通点として、「敗者の苦しみ」を知っていた人間だと言えるだろう。
ずっとのちの話だが、海軍幹部のなかでナチス・ドイツとの同盟に反対した山本五十六、米内光政、井上成美の「三羽烏」は、それぞれ長岡、盛岡、仙台と、「負け組」奥羽越列藩同盟に参加した藩の本拠が出身地である。奥羽越列藩同盟はそもそも会津藩を助ける同盟であったから、この三人の思いも会津藩出身の軍人に通じるものがあったはずである。このことについては、いずれ触れる機会があるだろう。