母の手からスマホを取り上げ、画面を凝視する。つい数十分前、組長と年越しの挨拶を交わした。トーク画面の一番上にあったのは組長のアイコンだ。あまりに沢山出てくるスタンプをあれこれ触っているうちに、なぜかトーク画面に行きついたらしい。慌てて送信取消をしようとしたが、もう既読がついていた。身体中から冷や汗が噴き出した。
「何やってるんだ」と声を荒げると、母は「何もやってないよ。スタンプを触っただけ」という。この”触っただけ”がヤバかった。母のスマホはらくらくホン、グッと押してカチッと音が鳴らなければ操作できない。画面を軽く触れただけでスタンプが送れられてしまうと思っていなかったのだ。
青ざめた顔で画面を凝視する様子に異変を感じたのか、「誰に送ったの」と聞く母に「ヤクザの組長」と答えた。「え!」と仰天すると、「私、指を詰めなくちゃいけないかな」と左の小指をなでる。もし下っ端の若い衆がこれを親分に送ったならば、たとえ誤送信でも処分は免れないだろう。母に「それはない」と言いながら、最悪の事態を想像する。とにかく今は謝るしかない。いくらよく知る組長とはいえ、さすがにクソ!とうんこは失礼だ。ラインに謝罪のメッセージを入れ画面を見守る。息を潜めて待つこと数十秒。頭の中にはこれまで会った幹部や組長らの言葉が浮かんでは消えていく。
「カタギには手を出さない」、「ヤクザは本来、お年寄りは大切にするもんだ」という穏やかなものから、「おい、追込みをかけろ」「てめぇ、簀巻きにして沈めるぞ」「中途半端に生かして返されてもな」などの脅し文句までが頭の中を駆け巡る。ちなみに簀巻きにするとは、身体を布団などでぐるぐる巻き水中に投げ込むことだ。
ピンコンとLINEの通知音が鳴った、気がした。組長からの返信は「大丈夫ですよ~」と軽かった。ホッと胸を撫でおろしたが、本当に大丈夫なのかと心配になる。なにせ送ったスタンプはクソ!だ。新年に運がつくからと母の誤送信を説明すると、「そりゃいい。運がつくね」と明るい返事が返ってきた。その返事に母は「昔の任侠映画みたいだ。ヤクザの親分はこうでなくっちゃ」と笑い出す。思い返せば、ヤクザを取材してきてこれほど焦ったことはなかったと思う。
後日、直接謝罪すると「そんなこと気にしてませんよ」とほほ笑んだが、どこまで本音かはわからない。ヤクザたちとの連絡は別のアプリへと移り始めた。スタンプの誤送信による心配は今のところない。