【書評】『かなたの子』(角田光代/文藝春秋/ 1260円)
【評者】鴻巣友季子(翻訳家)
* * *
怖い短編集だ。角田光代の得意とする「日常のほころびに覗く薄闇と狂気」を描く逸品揃いである。ただ、マンションやコンビニなどの風景が登場する現代生活を描いた、これまでの短編集とはだいぶ趣が違う。
「おみちゆき」「闇の梯子」「巡る」など全八編のうち、舞台がはっきり今どきの東京とわかるものもあるが、近代と現代の間にあるような時代の、どことも知れない地方の話も多い。人間の罪の源流へと遡ろうとする引力を感じさせ、その言葉にはどこか剥きだしの手ざわりがある。作者のなかでは異色作ではないか。
他者の死の上に成り立ち積み重なる人間の生のありさまを、本書は繰り返し描く。ある篇の貧しい農村では川で子どもの間引きや堕胎がある。また、別の篇では、双子の片方を生かすために犠牲になった命がある。ある篇の集落では、住職が村人たちのために即身仏になろうとする。
しかし本書が書く「他者の死の上に重なる生」とは、そうした直接的な命の選択のことだけではない。同級生の、ひた隠しにした死の真相の上に危なげに立つ生もある。あるいは、ある篇で、独りぼっちの妻がうっすらと狂気を萌していく家に出入りする、黒い影のような人々とはだれか?
どの篇でも人は密かな罪を背負い、そこから逃げようとしている。その押しこめられた苦しみから、追いかけてくる黒い闇から、信心や信仰が、時にはそれらが歪んだりもつれたりした思い込みが生まれ、人々をさらに駆り立てる。苦しみに赦しは訪れるだろうか。
ある篇で、幼いころ母に殺された自分の前世を占い師に見せられた女は、こんどは自分が夜の川へ手を引いてきた子の顔を見ながら思う。「私が生を終えることは何かをつなげていくことだった。そのことを許すどころか私は望んでいた。〈中略〉私は母で、子で、だれかによって生かされただれかでもあったのか」
人は他者によって生かされる。生のつらなりを掘り下げてきた作者が、そのことをまた新たなアプローチで書いた秀作である。
※週刊ポスト2012年1月27日号