物事は人が動いて初めて少しずつ動くことに、改めて気づかされる一冊だ。例えば本。今でこそ欧米やアジア諸国で日本文化は一際のブームとも聞くが、(株)日本著作権輸出センター創業者で現・相談役、栗田明子氏(78)が単身NYへ旅立った1970年当時、日本の文学的“貿易収支”は一方的な〈入超〉状態にあった。中でも言葉の壁は大きく、日本の優れた出版物を知ってもらおうにも、翻訳者の確保や権利関係の整備等、何もかもが一からのスタートだったという。
以来〈日本の心を輸出〉したいと、累計1万3000件に及ぶ日本作品を世界40か国以上に紹介してきた栗田氏は、その〈かたつむりのような歩み〉を『海の向こうに本を届ける』に綴る。本も心も、誰かが届けなければ届くはずもなく、その原動力は驚くほど純粋で向こう見ずな夢と情熱だった。世界を飛び回るタフネゴシエーターというより上品な貴婦人といった佇まいの栗田氏は、芦屋市出身。栗田氏は語る。
「父は女が大学へ行くなんて嫁ぎ遅れるだけだという古い人間でしたから、生前は上京も反対されて。私も漠然と本に関わる仕事がしたいと思いながら特に展望もなく、まさか今の仕事を一生独身のまま続けるとは思いませんでした(笑い)」
甲南女子高卒業後、商社等を経て当時世界最大の出版社『タイム』に広告部長秘書として入社。仕事は充実していたが、後に著作権代理店(株)日本ユニ・エージェンシーを創立する宮田昇氏の著書『東は東、西は西』との出会いもあって、〈出版は志が最初にあってこそ手がけるべき仕事だ〉と35歳の時に退社。まずは1年間、海外の出版事情を見て回ろうと、渡米を決意する。
「ついては御社の名刺を持たせて欲しいと、いきなり宮田さんに直談判に行くんだから無謀ですよね(笑い)。なぜタイムを辞めるのか、周囲は疑問に思ったようですが、常にマーケットありきの〈商品〉として本を捉える姿勢に違和感があったんですね。当時翻訳出版といえば海外作品の輸入が中心で、輸出にはエージェントもどちらかというと受け身。私はもっとこの本を届けたいという、能動的な仕事がしたかったんです」
念頭にあったのが北杜夫著『楡家の人びと』だ。
「日本の文化や歴史や経済が端的かつユーモアたっぷりに描かれ、トーマス・マンに触発されて書かれたというあの作品には人間普遍の主題もある。難点は長さで、結局英訳版が出るまで時間はかかってしまいましたが、問題はその都度、解決していくしかありません」
どうあるべきか、答えは出ずとも突き進んでみるのが栗田流だ。帰国後は宮田氏のもとでキャリアを積み、再び輸出の夢を追って独立。ケルンを拠点に欧州各地の出版社を1軒1軒〈行商〉に回る傍ら、現地の出版事情を〈クリポート〉と名付けた通信に手書きで綴った。
「本を括りつけたカートをゴロゴロ転がしながら街をゆく度胸だけが自慢の私に、行く先々で助け船を出してくれた多くの出版人の物語をせめて書き残しておきたかったんですね。特に政情の不安定な国では歴史に志を奪われた出版人も少なくなく、いかに出版が自由の象徴的行為であるかに改めて気づかされる。
旧ユーゴなんていい出版社が多かっただけに残念ですし、今や五大コングロマリットに席巻されるアメリカの出版社にもそれぞれ誕生秘話はある。そして今では昔話でしかない志の物語を、例えば大資本の影響下にない出版社をNPOで立ち上げたアンドレ・シフレン氏のように、一方で継ぐ試みもあるのがアメリカで、その不思議さというか、日本と比べ、羨ましくさえ感じてしまうのは確かです」
(構成/橋本紀子)
※週刊ポスト2012年4月27日号