iPS細胞を作製し、ノーベル医学生理学賞を受賞した京都大学・山中伸弥教授(50才)。その偉業の裏には、妻である知佳さん(50才)のサポートがあった。
山中さんは1962年、大阪府東大阪市で、ミシンの部品を作る小さな町工場を営む両親のもとに生まれた。自宅は工場も兼ねており、物心がついたときには機械や設計図に囲まれていたという。
時は高度経済成長期。工場の経営は順調で、小学生の頃、一家は奈良の高級住宅地に引っ越した。奈良市立青和小学校の同級生で現在は奈良市議を務める酒井孝江さんは、“山中少年”をこう振り返る。
「4年生まではどちらかというとぷっくりしていたんですが、高学年になると急に背が伸びてスリムになりました。頭もよく、見た目もよく、スポーツもできる。女の子たちはみんな、『山中くん、いいよね』『実は私も山中くんが好き』と言い合っていました」
成績のよかった山中さんは越境入学で中高一貫の進学校、大阪教育大学附属天王寺に入学し、運命の人に出会う。後に妻となる知佳さんだ。
知佳さんは山中さんと同年、大阪府生野区で生まれた。父親は大阪市内に個人病院を開業する医師で、敷地内に自宅があった。
「2人は中学2年の時に同じクラスになっています。出席番号も並んでいて、山中教授が『や』行で男子の最後、次が女子のいちばん最初の『あ』行の今村さん(知佳さんの旧姓)でした」(同中学校の武井浩平先生)
山中さんは中学3年間、柔道に打ち込む日々だったが、出席番号が並んでいたこともあり、知佳さんと親しく話すようになっていく。そして、高校1年で再び同じクラスに。ふたりが親密度を増したのはこの頃のことだ。担任だった河野文男先生が当時を振り返る。
「ある時期に、ふたりがおつきあいしていることが皆に知られたようで、同級生たちが騒いでいた。見ていて微笑ましいカップルでした」
“ある時期”とは、高校3年の修学旅行。自由行動の後、山中さんと知佳さんが集合時間に遅れ、ふたり揃ってバスに乗ってきたのだ。「ヒュー、ヒュー」と冷やかす同級生たちに、山中さんは「みんな、すまん」と照れていたという。
山中さんは中学と変わらず部活は柔道に打ち込んで、高校2年で2段に昇段。生徒会の役員も務めながら、『かぐや姫』のコピーバンド『枯山水』を組んで、ギターとボーカルを担当。それでいて成績は常にトップクラスだった。
※女性セブン2012年11月8日号