第二次世界大戦とはなんだったのか──今でこそ、あの大戦を振り返るべく、元日本軍兵士たちの“最後の証言”を聞いてみよう。
証言者:浦正造(91) 元海軍第九三八航空隊
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〈浦氏は大正11年生まれ。昭和14年6月、海軍に志願し少年電信兵となる。昭和18年5月、高等科電信術練習生を卒業し第九三八航空隊に配属。ラバウルより復員。〉
昭和18年5月、私は第九三八航空隊(九三八空)付を命じられた。しかし九三八空がどこにあるかもわからない。ともかく輸送船に乗ってパプアニューギニア領・ニューブリテン島のラバウルへ向かった。そこで初めて九三八空はショートランド島の水偵(水上偵察機)基地にあることがわかった。
すでに日本軍はガダルカナルを撤退し、米軍がソロモン諸島を北上している最中だった。ショートランド島はまさに最前線。ラバウルからショートランド島へ移動し、着任したとき、「よくも無事で来られたもんじゃなあ」と思った。
着任早々、当直についていたら、電信室総員が突然レシーバーを外して飛び出して防空壕へ向かっていった。「逃げなあかんのか」と慌てて私も防空壕に飛び込んだ。それが初めての機銃掃射だった。足元で弾が砂ぼこりをあげた。間一髪だった。
それから毎日のように爆撃、機銃掃射、艦砲射撃。すでに敵は近くのモノ島に上陸していた。ブーゲンビル島のタロキナにも上陸という報があり、包囲されたも同然。私たちはラバウルにある九五八空に合流せよとの命令を受けた。「転進」という名の撤退だった。
大発(大発動艇=上陸用船艇)でブーゲンビル島の南端ブインまで行き、そこから北のブカまで東側の海岸沿いに約250kmの道なき道をひたすら歩き続けた。15日かかったと記憶している。言うのは簡単だが、筆舌に尽くせぬほどの飢餓にあえいだ。食糧は3日分しか持たず、1000m級の山を越え、ブカに着く頃には軍服はボロボロ、骨と皮だけになり、木の杖をついて歩くのがやっとの状態だった。
途中、キエタという現地人部落で大休止したとき、敵に発見されて機銃掃射を受けた。嘘みたいな話だが、椰子の木の周りをぐるぐる回って難を逃れた。3日分の食糧はとうになくなり、カエルやヤモリ、ヘビまで食べた。それが貴重なタンパク源だった。何日かかるかわからない行軍は悲惨なものだ。体験した者でなければわからない。
そうしてようやくラバウルに着いた。当時は知る由もなかったが、ラバウルは絶対国防圏の外にあった。補給はもはや無い。自給しながら飛行場は死守せよとは、勝手な話だ。私たち200名ほどの隊員は、半分は塹壕掘り、半分はサツマイモを主とした農作業に従事した。敵の上陸に備えて、棒の先に箱型の爆弾をつけて戦車に突っ込む練習などもした。何と幼稚な作戦だったことか。
ラバウルには陸軍7万、海軍3万、合計10万人の兵士がいた。あばら骨が浮き出て腹が膨らんでくる。太ったのではなく、栄養失調で腹水がたまっているのだ。そんな状態が長く続いた。
終戦になって豪州軍が上陸してきた。ある日、道の両側に並べと言われた。裸足の現地人部隊が、短剣と小銃を持って、ラバウル入場行進をやったのだ。このとき私は敗戦のみじめさを嫌というほど思い知らされた。
●取材・構成/笹幸恵(ジャーナリスト)
※SAPIO2013年9月号