年収300万円程度がちょうどよい、昔の日本人は貧しくても心が豊かだったそんな考えは真の貧困を知らない者たちの驕りではないか。長年に亘り貧困問題を研究するジェトロ・アジア経済研究所研究企画部長の佐藤寛氏に明治期の貧困について話を聞いた。
* * *
明治初期には、東京市内におよそ3000戸の貧民長屋が存在し、そこに約1万人の人々が暮らしていた。彼らの生活を支える主な仕事は人力車夫や下駄直し、紙屑拾い、日雇いの土工などだった。
朝から晩まで働いても日当は10銭にも満たない。工場労働者の半分以下の稼ぎは、日払い家賃や食費でほぼ消えた。屋外労働者は、長雨の季節は仕事にありつけないことも多く、数日間、食事をとれないこともあった。
貧民街には、貧民による貧民のためのさまざまな商売が存在した。象徴的なのが「残飯屋」だ。食糧が集まる都市部では、人々の食べ残しを買い取る業者が複数あった。
明治25年、『国民新聞』記者の松原岩五郎が残飯屋に潜入取材を試みた。彼が後に記した『最暗黒の東京』によると、料亭や軍の士官学校から排出される残飯は「上物」とされ、ひと笊(15貫目=約56キロ)が50銭で買い取られた。業者はそれを1貫目(3.75キロ)あたり5~6銭で売り捌いたという。店先に上物の残飯が並ぶと腹を空かせた貧民たちが群がった。
残飯の中身はパンの屑やタクアンの切れ端、魚の骸や焦げ飯などだったという。客は飯櫃や小桶を差し出し、「2銭分」「3銭分」と手持ちの金で買えるだけの分量を求めた。
仕入れ先からの供給が3日ほど途絶えると、貧民街は飢えに陥った。哀れに思った岩五郎が厨房に掛け合い、肥料用のジャガイモや豚餌の餡殻(小豆の粕)を持ち帰ると、人々は嬉々としてそれを購入した。このような残飯屋は東京だけでなく、他の都市部にも存在していたという。
当時の東京市内には、貧民街に加えてドヤ街が形成されていった。町には木賃宿が数多く作られ、日雇い労働者で賑わっていたという。先述の松原岩五郎は、この木賃宿にも潜入を試みている。記録によれば、宿賃は1泊3銭。20畳ほどの大部屋には5~6人の先客がいた。異臭を放つ垢まみれの布団、その傍らで虱を噛み殺す老人……。夜は穴だらけの蚊帳に10人以上の客が押し込まれ、不快な体臭と虱(しらみ)の攻撃で、とても眠ることができなかったそうだ。
※SAPIO2013年11月号