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鈴木史朗氏 「国のためにとサムライ母に厳しく育てられた」

2013.11.07 07:00

 母はどんな時も無償の愛で包んでくれた。その偉大さを知ったのはいつのことだったか。慈母の記憶はいつも、懐かしい温もりとともに甦る。ここでは、フリーアナウンサーの鈴木史朗氏(75)が母・テルさんとの思い出を振り返る。  * * *  とにかく

 母はどんな時も無償の愛で包んでくれた。その偉大さを知ったのはいつのことだったか。慈母の記憶はいつも、懐かしい温もりとともに甦る。ここでは、フリーアナウンサーの鈴木史朗氏(75)が母・テルさんとの思い出を振り返る。

 * * *
 とにかく厳しかったという思い出しかありません。母には可愛がってもらった記憶がない。一言でいえば、“サムライ”の母でした。

 ウチは京都・上賀茂神社の社家で、神社を守護する武士の家系。ですから、母は私に「武士の心得を叩き込む」という意識が強かったように思います。

 これは時代背景も大きかったですね。私は1938年生まれ。戦時中ですから、母とすれば長男を武士の末裔として「お国のために立派に死ぬ男」に育てなければならないと覚悟を決めていたようです。厳しくすることで“子離れ”しようとしていたのでしょう。

 母の教育は儒教が説く5つの徳目の「仁義礼智信」でいう、信の代わりに誠実さの“誠”と勇気の“勇”が入る感じ。武士道の根幹のようなもので、「弱きを助け強きを挫け」、「曲がったことはするな」とかそんなことばかり教えられました。

 まさに獅子が我が子を千尋の谷に突き落とすが如くで、文字通り、階段の上から蹴飛ばされて下まで転げ落ちたこともあります。それでも、「立って上ってこい」という母でした。

 そのおかげで鍛えられ、私の人間性も形成されました。アナウンサーとしてTBSに入社してからも、義に反する物事には憤りを感じて、上司であろうと意見をしました。でも父が早くに亡くなり、男社会である会社組織での振る舞い方を教わる機会がなかったためか、衝突も多かった。

 会社組織特有の陰湿な“いじめ”に遭ったこともありますし、報道局時代には、ある大物司会者の偏った報道姿勢に異を唱えたために、数日後に番組を外されました。それでも耐えることができたのは、「どんな辛いことにも耐えるのが男だ」という、母の教えが支えになったからだと思っています。

 母は「昭和の苦労」を1人で背負った女性でした。父が日中合弁の貿易会社を設立した関係で、私は幼少期を中国で過ごしました。しかし終戦と同時に父は中国政府から身に覚えのないスパイ容疑をかけられ、全財産没収のうえ拘束された。その状況のまま母は長男の私と、まだ小さい妹2人、3人の子供を連れて日本へ引き揚げることになります。

 北京から天津の港まで120kmを歩きました。当時小学2年生だった私に妹2人の手を引かせて、母は「お父さんの代わりだ。しっかりしろ!」とハッパを掛けた。母だって心細かったはずです。でもぐっと涙を堪え、口を真一文字に結んだ姿は忘れられません。

 母は87歳で他界しました。晩年は私が介護をして最期を看取ることができました。父が58歳の若さで亡くなっていたので、亡くなる直前に母は、「こんなに醜くなった姿でお父さんに会いたくない」といっていました。

 2人は当時としては珍しく、周囲の反対を押し切っての大恋愛で結ばれていたんです。私が、「大丈夫。向こうでは20歳の若さに戻るから安心して」と語りかけると、ホッとしたような安堵の笑みを浮かべ、目を閉じました。その安らかな表情に優しい母の顔を見ました。

■鈴木史朗(すずき・しろう):京都府生まれ。TBSアナを経て独立。現在は講演活動を中心に活躍中。

※週刊ポスト2013年11月8・15日号

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