【書評】『名づけの民俗学 地名・人名はどう命名されてきたか』田中宣一/吉川弘文館/1836円
【評者】内田和浩(歴史研究家)
およそこの世に存在するものには名前がある。民俗学者の著者は、名づけという行為は、人がそのモノに関心を抱き、他のものと区別し、人びとと認識を共有するためのものと述べる。そして、名づけには、モノの観察・解釈の結果として表現されている「名づけ的命名」と、期待感や抱負のにじみ出た「名のり的命名」があるとする。
「名のり的命名」の最たるものが人名である。皺くちゃの赤ん坊に、「美子」とか「幸子」と名づけるのは、赤ん坊の観察からではなく、その名前のような人物になってほしいという期待からである。著者はこれを日本人の「言霊信仰」によるものという。言霊信仰とは、言葉には意味と不可分の霊力が宿っていて、その言葉を発するとそれが現実になると信じられることだ。たとえば、受験生を前にして「落ちる」という言葉を避けるのは、その言葉によって不合格が現実になることを恐れるからだ。
言霊信仰をもち続けてきた日本人にとって、人の名前は、その人の全体を表すものと信じられてきた。本書によれば、かつて女性の名前はとくに秘されるものだったという。紫式部など、平安時代の貴族の娘が系図に「女」とだけ記されていて実名がわからないのは、女性の身分が低かったからではなく、秘密だったからなのだ。
現在の社会でも、名前は苗字とは意味合いが異なることに気づく。上司を「佐藤さん」と呼ぶことはあっても、「太郎さん」と呼ぶのは失礼だろう。また、部下の女性を「優子」と名前で呼び捨てにすれば、周囲に関係を勘ぐられるかもしれない。それだけ名前というものは重い意味をもつものなのだ。
著者は現在の子供の名づけの傾向にも言及する。たとえば女子で人気のある「ユイ」という読みは20以上の表記があり、また一方で、人気のある「結愛」という表記は「ユイ」「ユウア」「ユナ」「ユラ」など読みはまちまちであるという。
「命名に知恵をしぼる親の愛情はわかるとしても、漢字本来の意味を離れ、雰囲気を重んじるさまざまな呼び方をする傾向にはとまどいを感じられずにはいられない」というのが著者の感想だが、いかがだろうか。これから親となるかたには本書を一読のうえ、愛する子に名をつけてほしいと思う。
※女性セブン2014年6月26日号