自動車販売台数世界首位に君臨するトヨタだが、中国では各国メーカーの後塵を拝している。世界で強いトヨタなのになぜ中国ではそんな状態にあるのか? 過去に発生したとある事情について経済ジャーナリスト・永井隆氏が解説する。
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トヨタと中国の関係は、半世紀以上前に遡る。
戦前、トヨタは天津と上海にトラックの生産工場、部品工場を持っていた。終戦によって、中国に接収されたという。本格的な交流は戦後始まった。1964年、トヨタはクラウンの輸出を開始する。1971年9月にはトヨタグループ代表団が訪中を果たす。戦後、西側諸国の自動車メーカーによる訪中は、これが初めてだった。
翌1972年、日中国交回復の直前のタイミングで、中国政府の自動車工業視察団が来日してトヨタを訪ねた。「将来、中国は巨大な自動車市場になるという、当時の豊田英二社長の読みが背景にあった」(トヨタ関係者)という。
1978年末、実権を握ったトウ小平によって中国は改革開放へと舵が切られる。巨大なフロンティアが突如として隣国に現われた。自動車に限らず日本の製造業各社は、乗り遅れまいと市場調査を始める。
しかし、トヨタは動じることはなかった。既に中国とは浅からぬ関係にあったからだ。中国の古い言葉にこうある。
井戸を掘った人間のことを忘れない。
事実、この2か月前、トウ小平は来日し、トヨタをはじめとする製造業を視察していた。1978年には中国の大手メーカー・第一汽車(一汽)の幹部がトヨタを訪問し、前後してトヨタも中国に調査団を送り込んでいた。1981年にはトヨタ生産方式の生みの親の大野耐一相談役(当時)が一汽を訪れている。
機は熟しつつあった。自動車産業を国家の基幹産業に据えようと動き出した中国政府の念頭にあったのは、トヨタだったに違いない。中国政府はトヨタに対し、合弁企業設立による進出を要請した。
しかし──。
トヨタは三顧の礼を尽くす中国政府の要望を断わったとされる。時を同じくして、米国への本格進出が予定されていたからである。