1946年、日本はGHQの要求により公娼制度廃止が決定された。しかし売春そのものを禁止する法律は当時はなく、遊廓はその後「特殊喫茶」と改称し、娼妓たちは「女給」として売春を再開させた。
その状況に警察は地域を限定して売春を許可し、その地域を地図上に赤線で囲んだため「赤線」と呼ばれるようになった(それ以外の私娼街は、地図上では青線で囲まれたため「青線」と呼ばれた)。
そんななか、新憲法下で女性議員が政界に進出するようになり、女性の地位向上を目的とする運動家や婦人団体とともに「赤線廃止」論が盛り上がる。
一方では保守派の男性議員を中心に存続派も結束し、存続派と廃止派の間で「赤線廃止論争」が勃発した。存続派は赤線がなくなると私娼が増え、犯罪と性病が蔓延するとの主張だった。
赤線存続派の日本民主党の椎名隆議員は売春を「茶わんに盛った御飯の上のハエ」にたとえ、赤線(茶わんに盛った御飯)をなくそうと売春等の処罰法を通せば、「そのハエが四方に散乱して、より以上のいわゆる性病を蔓延せしむるんじゃないか」と述べた。
売春する女性たちを「ハエ」とみなす差別意識丸出しの発言である。ところがこうした差別意識は、廃止派も同様だった。
廃止派の女性たちは売春撲滅と女性の人権保護を掲げていたが、売春婦に対しては売春同様に敵視していた。
戦後初の女性参議院議員となった宮城タマヨ(緑風会)は、1956年の第24回通常国会でこのように発言していた。
「日本の街の女、あるいは集娼窟(赤線地帯)の女にいたしましても、実に彼女らは、口々に政治の貧困を唱えながら、(略)女で最高の収入者である、婦人議員どもどうだ、負けるだろうというような、そういう実に不謙遜な態度をいたしております」
本音は、「売春婦が自分たちより稼いでいるのが気に食わない」だったのだ。
この年、存続派と廃止派の妥協によって「禁止」を「防止」に改めた「売春防止法」が成立した。それにより赤線は廃止され、日本の公娼制度は完全になくなった。
※SAPIO2014年10月号