2004年に黒字のまま休刊した『噂の真相』は、「反権力」「タブーなき雑誌」を標榜するスキャンダル誌で、マスコミ従事者を中心に読者が多く、休刊時も12万部ほどの実売があったという。そして、その攻撃的な制作スタンスの結果、もめ事も大変多く、しばしば多数の訴訟案件を抱えていた。2000年には抗議で同誌編集部を訪れた右翼団体の構成員らが刃物を取り出し、編集長以下男性スタッフの多くが負傷した。
勝手にネガティブな想像をして申し訳ないが、あの時もし襲われた編集部の誰かが命を落としていたら、「表現の自由を守れ!」というデモが起きただろうか。数十人数百人規模の抗議集会は開かれてもおかしくないが、何万人もの日本人が立ち上がり、「私たちは皆ウワシンだ!」と書かれたプラカードが掲げられるか。そのイメージは、私の頭の中でまったく描けない。
なぜかと言うと、あのスキャンダル誌は人気があったが、たいていの読者は「下衆な野次馬根性」を自覚しつつ、こそこそ読んでいたからだ。「表現の自由」が云々といった高尚な話にからめにくいのだ。『シャルリー・エブド』だって下ネタ満載だし、人前で堂々と読む新聞とは考えにくい。だが、テロにあえば、そこから盛大に「表現の自由」の声が巻き起こる。
だから日本人は遅れているとか、フランス人は進んでいるとか、そういうことを言いたいのではない。ただただ私は、テロに走った過激派メンバーらの思いも理解不能だが、「表現の自由」を声高にする人々の思いも実はよく分からないという事実を書き残しておきたいのだ。
「表現の自由」の価値づけが、自分と彼らとでは意外なほど違う。西洋文化にどっぷり浸かっているつもりでも、いやいや全然そんなことはない、という「発見」は今回の事件の個人的収穫である。テロ、殺しがいけないことは言うまでもなく、だ。
理解不能なよその文化圏のあり様に口を出すのは違うと思うから、一般論として付記したい。では、私にとって、「表現の自由」はどんなものか。それは無制限に守られなければならないものではない。「自粛」という言葉はそれこそ際限なく委縮してくイメージをともなうので、「自制」のほうを使いたい。
表現をする者には自制心が不可欠だと思う。からかいたい対象はからかってもいい。が、まず、どんな反撃が来てもおかしくはないと、覚悟せよ。そして、「笑い」が、相手を蔑むばかりの「嗤い」にならないよう、自己コントロールせよ。自由な表現を続けたかったら、最低限のルールを自分に課せ。
以上を、他人に強いるつもりはない。が、そんなことを自分の肝に銘じさせる事件であった。