数年前ある雑誌で、私と同じ高校出身の半藤一利氏と宮部みゆき嬢と座談会を開く機会があった。そこで一番話題になったのが中島先生だった。
半藤氏と宮部嬢の先生の評価は正反対だった。戦時中、授業を受けた半藤氏は「軍事教練をさぼると思いっきり殴る軍国教師だった」と批判し、先生が和洋女子大の教授(その後、同大学長)になってから入学した宮部嬢は「先生の授業だけは受けたかった」と言って私を羨んだ。
その二人が、一方は主に昭和史の事件を丹念に調査して「歴史探偵」の異名をとり、一方が現代を代表する人気ミステリー作家になったのだから、やはりどこかで先生の感化を受けていたに違いない。
乱歩は「宝石」の廃刊がよほどショックだったのか、翌年の1965年7月28日、くも膜下出血のため70歳で没した。私が本格的に乱歩を読み始めたのは、それからである。
一読、驚嘆した。乱歩が子供向け作家なんてとんでもない。乱歩は子供には絶対読ませてはいけない猟奇作家、いや変態作家だった。
世の中の遊びごとすべてに興味を失った男は、ふとしたことで下宿屋の屋根裏から、他人の部屋を覗き見する快感を知った。そしてとんでもない完全犯罪を思いつく。この『屋根裏の散歩者』が窃視の快感を描いた傑作だとすれば、『人間椅子』は被虐趣味の底深さを描いて空恐ろしい。椅子職人が妄想癖を嵩じさせ、自分が作った椅子に潜りこむことを思いつく。
〈まっ暗で、身動きもできない革張りの中の天地。それがまあどれほど、怪しくも魅力ある世界でございましょう〉
『芋虫』は発表時、当局の命令で伏せ字だらけにされた。戦争で両手両足を失ったばかりか、聴力や話す力まで奪われた元中尉は、自分の意思を目で訴えることしかできない。
夫人はそんな“芋虫”同然の夫に暗い情念を抱き、目まで潰してしまう。この悪趣味と残虐性も乱歩文学の魅力の一つである。
『押絵と旅する男』は乱歩の最高傑作といわれる。舞台は蜃気楼で有名な魚津に行った帰りの汽車の中である。車内には私の他に風呂敷に包んだ押絵を抱えた老紳士がいるだけだった。老紳士はその押絵に纏わる奇妙な話を語り始める。ここには乱歩作品につきもののエロもグロも描かれない。やがて読者は、物語の主人公は私でも老紳士でもなく、押絵の中の物言わぬ美しい娘だと気づかされることになる。
心憎い展開である。だが、乱歩作品を多く読むうち飽き足りないものも感じるようになった。なによりも文章が粗雑で、人物造形が紋切型なのである。
※SAPIO2015年5月号