師匠連が所属した因会には松竹がついていたが、住大夫らが所属した三和会は自主運営だった。住大夫たちは、それこそ東京を始めとする“ドサ回り”をして生計を立てた。
「そら大変でした。何とか掛け合って東京の三越で定期的にやらせてもろたり。地方回りも、文楽は三味線も人形も必要ですさかい、毎回、大移動なんです」
当時の地方興行は、任侠の親分さんたちが握っていることが多かった。昔はそれこそ「大親分」と呼ばれ、尊敬される大物もいた時代だ。
住大夫らはそんな親分衆とも渡り合いながら、自主公演を続ける。しかし客の入りが悪いと、宿泊や食事などの待遇が極端に悪くなったという。やがて松竹が経営難になると、文楽も二派に分かれている場合ではなくなる。当時の財界などが掛け合い、大阪府市と国による助成金制度が始まり、文楽も一つにまとまることになる。
「せやけど、今の子(後輩たち)は、“結構すぎて”可哀そうです。私のときは、家の中は貧乏でも、外では高級なところにつれて行ってもろた。今の子はそんな苦労してへん。私はええ星の元で生まれたんでんな」
※SAPIO2015年6月号