明との交易が途絶えた16世紀後半になると、南蛮船の往来に触れた西国大名たちの眼は朝貢儀礼抜きの関係が築ける東南アジア諸国に注がれるようになった。大友氏第21代当主・義鎮(宗麟)は、代々培ってきたノウハウを活かし、カンボジア国王と国書のやり取りを開始するなど貿易だけにとどまらず外交関係樹立に漕ぎつける。この間にカンボジア国王から贈られた物品の記録を見ると、武器や実用品の他に、「象と象使い」「鏡職人」といった珍品、人的資源まで交換されていたことがわかる。
なお、カンボジアとの交易に際し宗麟は九州全域を統治していることを示すかのように「日本九州大邦主」を自称している。実際には九州の南半分は敵対する島津氏の領土なのだが、自分の勢力を誇張し、相手の信頼を勝ちとるための外交上のテクニックだ。また、彼は洗礼を受け「キリシタン大名」のひとりとされているが、洗礼を受けたこと自体、西洋人を相手にする外交・貿易交渉のための便宜上の手段だったと思われる。
おかげでこの時期のヨーロッパでは、九州全体を指して「Bungo(豊後)」と独立国のように記された地図が散見される。国内が天下統一の国盗りに邁進する中、大友氏をはじめとした西国大名たちは海外を視野に入れた領地経営戦略を立てていたのだ。
独自の視点に立って外交の実績を積んでいた大友氏の存在は、やがて天下人となった秀吉の目には脅威に映り改易(領地没収)されてしまう。だが彼らが拓いた海路こそがその後、江戸時代初期の活発な東南アジアとの朱印船貿易の土台となるのである。
※SAPIO2015年12月号