続けて谷川戦。これも正確には順位が上の谷川が上座。しかし先に現れた羽生は今度も平然と上座を陣取る。将棋は羽生が勝ち、名人挑戦権の行方は、プレイオフとなり再び谷川と関西将棋会館で相まみえることとなる。
対局15分前に和服に身を包み現れた羽生は、またしても上座に着く。後から現れた谷川は口にこそしなかったが表情は硬く怒りを顕わにしていた。
「私の座る場所がない」
ちょうどこの10年前に名人位についたばかりの谷川が対局室に行くと自分の座るべきはずの上座にすでに先輩棋士(加藤一二三〈ひふみ〉九段)が座っており、驚いた様子をこう表現したことがあった。それと同じことが名人戦挑戦者決定戦で起こったのである。
そしてこの対局を制した羽生が初の名人挑戦権をつかみ、米長(よねなが)邦雄名人を下して初めての名人位に就く。
これが羽生善治3連続上座事件の顛末。将棋界は騒然となった。棋士道に反するという棋士、もっと謙虚になるべきという声、生意気だという将棋ファン。
しかし羽生はとにかく目の前の勝負を勝ち抜いていくという強い意志で前へ進み、白星という武器でそれらを封じ込めていったのである。ある意味で凝り固まっていた将棋界の風習や常識を羽生は白星を積み重ねることでことごとく塗り替えていったのだ。それは音のしない革命を見ているようだった。
羽生善治という青年は、将棋はジャストゲームと言い切ったように、なるべく無駄なものを排除し、定跡の先入観を捨て、科学のように棋理を追い詰めようとした。礼儀は正しいし、性格は極めて素直で明るい。
そんな彼を目の当たりにしていた当時将棋世界編集部に勤めていた私は、3連続上座には何ともいえない違和感に囚われていた。羽生の日頃の言動からして上座も下座もまったく拘泥(こうでい)していないはずなのである。それは盤外のことだからだ。
ほどなくして将棋雑誌に羽生自身の謝罪文が載り一件落着となる。4冠を保持していたことで3局とも全部自分が上座だと思い込んでいた、順位戦だけに特別な決まりがあることは知らなかったというものであった。
日本らしいやや曖昧な決まりが混乱のもととなった。しかし羽生自身も、はっきりと順番を決めるのではなく、融通があるほうが好きだと言っている。また上座に先に、中原、谷川が来て座っていたら、の問いに「まったく何とも思いませんでした」との言葉を残している。
※SAPIO2016年1月号