世界最大の自動車メーカーのトップでありながら、トヨタ自動車・豊田章男社長は自身のことをほとんど語ろうとしない。だが、彼が「師」と仰ぐあるドライバーを通してみると、その自動車哲学は鮮明になる。気鋭のノンフィクションライターで新刊『豊田章男が愛したテストドライバー』著者の稲泉連氏が、豊田社長の実像に迫った。
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成瀬弘というテストドライバーの名前を知ったのは、いまから5年以上前のことだった。2010年6月23日、トヨタ自動車の社内テストドライバーだった彼は、ドイツのサーキット・ニュルブルクリンク近郊の公道で、トヨタのスーパーカー・レクサスLFAの開発テスト中、同じくテスト中だったBMWと衝突した。
その死亡事故を伝える新聞記事を読んだとき、私はいくつかの点に引っ掛かりを覚えた。記事には成瀬の年齢が67歳と書かれており、臨時工としてトヨタに入社した人物とあった。そして、彼がトヨタのスポーツカーの開発に長く携わってきたこと、現社長の豊田章男に「運転の師」と仰がれていたことなどが報じられていた。「伝説のテストドライバー」とも呼ばれたという。
だが、トヨタという世界最大級の自動車メーカーの社長が、一人の社内テストドライバーを「師」とするとはどのような意味なのか。
それから5年以上の歳月をかけて成瀬弘の生涯を描くことになったのは、そのなかで豊田章男という創業家出身の経営者にとって、彼の存在があまりに大きなものだったと気づいていったからだ。成瀬を描くために、私は豊田を描かなければならなかった。また、同じように豊田を語るためには、成瀬を語らなければならない。二人は文字通りの師弟関係を切り結んでおり、豊田の経営観やクルマづくりへの価値観に成瀬は計り知れない影響を与えていた。
豊田が成瀬と出会ったのは約15年前。米国の現地法人から日本に帰国したときのことだった。
「トヨタの中には、俺たちみたいに命をかけてクルマを作っている人間がいる。そのことを忘れないでほしい」
成瀬はそう語りかけると、「月に一度でもいい、もしその気があるなら、俺が運転を教えるよ」と豊田を挑発するように言ったという。以来、二人は他の社内テストドライバーたちと、テストコースやサーキットで運転訓練を行ない始めた。
「僕はアメリカで本当に好きだったゴルフをやめた。真剣にクルマをやり始めたら、ゴルフをしている場合じゃなくなったから。クラブをステアリングに持ち替えたんだ」と豊田は語っている。