自分の質問の仕方やタイミングが悪いのかと思っていたが、ある先生が「僕の考えはこうです!」と質問を打ち切られたので、了解した。彼ら先生が「語り」を入れているとき、聞いているのはだいたい生徒か保護者だ。いつも「ハイハイ」と聞いているばかりの人を相手に喋っているので、「異論」を差し込まれると驚くのではないか。「先生はいつも正しい」という前提を疑われることを想像もしていないのではないか。
逆の例証がある。私はかつて有名進学校の教師たちを集中的に取材した経験があるが、一度もポカンときょとんもなかった。あそこは口ばっかり達者な面倒臭いガキ……いや、大変活発で利発な生徒が多いので、先生の話に反論もする。そうやって先生も生徒から鍛えられているのだろう。
学校の先生が自らの無謬性を信じ込んでいるケースが熊本県でもあった。LINEによるいじめで自殺した高1女性の遺族が調査を申し立てた。学校内で調査委員会が立ち上がり、「いじめが自殺に直接的な影響を与えたとは認めがたい」という報告書をまとめた。
その調査委員会のなかにその高校の校長が入っていたのだ。遺族は当然、「公平中立な調査が行われたと捉えることはできない」と、外部の人間による第三者委員会の再調査を申し立てている(3月11日朝日新聞)。調査対象の学校のトップが入っていたらその報告書の中立性が疑われるのは当然のことで、この校長が「無私な自分が完全中立な判断をすると他人は信じてくれている」と、どうしてそこまで思い込めるのか不思議でならない。
また愛媛県では全県立高校で、生徒が校外の政治活動に参加する生徒に、学校への事前の届け出を義務化することがわかった(3月16日朝日新聞)。選挙権を持った18歳が、自分の政治的見聞を広げるために政治集会に参加するのはごく普通の市民的自由だ。参加して「良い」と思うこともあるだろうし、「ダメだこれは」と帰ることもあるだろう。
その市民的自由の行使を事前に「届け出」させるおかしさを、愛媛の先生たちはなにも疑問に思わないのだろうか。そんなに学校の先生と違う意見を生徒が身体の中に取りこむことを恐れているのだろうか。
あれだけ危険性を指摘されているのに、まだ高層の組み体操をやり続ける小学校の先生たちも同様だ。外部からの異論がなかなか受け入れられない。
ただの「校長のうっかり」発言では無く、問題の根は深い。