人間は本人の思い通りには生まれることができませんが、生命倫理の世界では自己決定権の尊重が望まれます。これに関連して、生まれるか否かに関しても自己決定権を認める物語があります。芥川龍之介さんの『河童』という小説です。
『河童』は昭和2年に書かれました。物語は認知症の主人公によって語られています。
〈けれどもお産をするとなると、父親は電話でもかけるように母親の生殖器に口をつけ、お前はこの世界へ生まれて来るかどうか、よく考えた上で返事をしろ、と大きな声で尋ねる……すると細君の腹の中の子は多少気兼ねでもしていると見え、こう小声に返事をした。僕は生まれたくはありません。第一僕のお父さんの遺伝は……〉
正に遺伝子に支配されて、人は生まれ、成長し、子供をつくり、年老いて、死んでいきます。この遺伝子による支配こそが輪廻(生まれては死ぬことの繰り返し)という苦の実体だったのです。今やパーソナルゲノム医療の時代となり遺伝情報による利益は大きいのですが、究極の個人情報である遺伝情報は差別の原因にもなり得るのです。
●たなか・まさひろ/1946年、栃木県益子町の西明寺に生まれる。東京慈恵会医科大学卒業後、国立がんセンターで研究所室長・病院内科医として勤務。1990年に西明寺境内に入院・緩和ケアも行なう普門院診療所を建設、内科医・僧侶として患者と向き合う。新刊に『いのちの苦しみは消える 医師で僧侶で末期がんの私』(小学館)。
※週刊ポスト2016年5月20日号