かつて“ビデ倫”(日本ビデオ倫理協会)というAV業界の自主審査機関が存在した。
ヘア、性器の露出、ストーリーの中身、といった事細かい部分にチェックを入れ、あらゆる表現の世界でもっとも厳しい審査基準と言われ、ビデ倫はAVメーカー、監督の生殺与奪を握る機関になった。ビデ倫による厳しい審査があればこそ、警察の猥褻物取り締まりの網にかからず、防波堤の役割をしている、というのが業界の受け止め方だった。
多くの監督たちが、ビデ倫の厳し過ぎる審査に泣く泣く従い、シーンをカットしたり、修正を加えたりした。その中にあって、豊田薫監督は激しくビデ倫と対峙してきた。
「俺、ビデ倫が大嫌いだったからね。いつもケンカしてた。俺の作品でヘアが見えるって? あらゆる作品でやったからね。ビデ倫に逆らおうという気持ちがあった。ビデオで1フレーム、2フレームに性器の映像入れちゃうの。サブリミナル効果をわざとやったんだ。
作品を審査する審査員は、映倫の天下りのおじいさんたちだから、途中寝たりするわけ。ごまかせるんだ。起きてくると、問題シーンが近づくと肩たたいて『先生先生。あのですね。最近僕は映像論としてこう思うんですけど』って話しかけるわけ(笑)。すると『それはだねえ』なんて言ってくる。その間、問題のシーンは素通り。ハンコ押されたらOKだからね」
1980年代はヘアが数本映っているだけで、警視庁に呼び出される、取り締まり側との緊張関係がつづいた時代であり、豊田薫は表現の自由を獲得しようと闘ってきた。
「俺は解禁論者だからね。プライベートでセックスするとき、あそこにモザイクが入るか? 他人の判断でモザイクを入れたりするのが嫌だったんだ。全部見せるより、チラリズムがいいんだっていう意見があるけど、それは解禁された世界でチラリズムをやればいい。モロ見せもOK、チラリズムもOK。それは解禁されたのが前提なんだよ」
過激な豊田薫作品を、一時期ビデ倫が審査拒否したため、豊田監督は変名で監督をせざるをえないときがあった。表現者は常にその権利のために戦ってきたのだ。いまビデ倫は解体され、豊田薫はさらに先鋭的な創作活動をおこなっている。
【豊田薫】1952年生まれ。名門大学中退後、コピーライター、自販機本出版社を経て、1985年、『少女うさぎ 腰ひねり絶頂 高野みどり』(KUKI)で監督デビュー。以後、問題作を次々に制作する。『マクロボディ 奥までのぞいて』(芳友舎)では露出の限界に挑戦。
●文・本橋信宏(ノンフィクション作家)
※SAPIO2016年9月号