ひとつは、「子供」は硬くて冷たい感じがして、「子ども」は柔らかくて暖かい感じがするから。最初に聞いた時は、「えっ、そんなテキトーな感覚で書き直しさせられるの?」と戸惑ったものだが、特に女性誌あたりでは書き手の文体よりも、雑誌のカラーを重視する傾向が強い。
話は逸れるが、文章内で「女」という単語を使ったら、「女性」への言い換えを要求され、その文では「女性」だとリズムがおかしくなるので拒んだ結果、そこの仕事自体がなくなったこともある。あれはライターになって2年目、はじめて得た雑誌コラム連載でのトラブルだった。後味が極めて悪く、以来、一方的な修正要求でも、よほど理不尽な内容でなければあまり抵抗しなくなってしまった自分がいる。
話を戻して、「子供」がダメだという理由の二つめ。それはつまり、クレーム防止策なのであった。時折、「子供」の表記に噛みついてくる読者がいるからである。「クレーマー」はこう言うらしい。「子供の“供”には、“お供え”や“お供”の意味がある。子どもをモノのように扱っていた過去を想起させるし、子どもの人権を軽視した表記だ。訂正とお詫びを入れなさい」と。
困った話だ。でも、言われてみれば、たしかに、1989年に国連総会で採択された国際条約の「Convention on the Rights of the Child(児童の権利に関する条約」は、「子どもの権利条約」と称されている。役所や学校の刷り物では、「子供」より「子ども」になっていることが圧倒的に多い。そこには人権意識が働いているらしいのであった。
いっぽうで、もとは漢字だった部分を仮名にする「交ぜ書き」は、日本語の使い方としてよろしくない、と昔から指摘されている。文化庁の公式サイトにも、〈「補てん」「ばん回」「伴りょ」のように、漢語の一部を仮名書きにするいわゆる交ぜ書きは、文脈によっては読み取りにくかったり、語の意味を把握しにくくさせたりすることもある〉とある。
交ぜ書きを「日本語として醜い」と批判する人もいる。私は美意識でそこまでは思わない。ただ、「子供」を交ぜ書きにして、助詞に「も」を使いたい時、困ってしまう。「子どもも大変だ」。「もも」ってなんなんだよ。私はそういうところが気になる。「子供も大変だ」のほうがずっと自然だ。
というように、「子ども」には機能的な欠陥があるのだが、公的機関は人権的観点から交ぜ書きの道を選んでいた。そして、その考え方で「クレーマー」が暴れることもあり、面倒を嫌う媒体が自主規制的に「子供」の使用を禁ずるという、なんともモヤモヤした状態が実際あった。
それが、である。ここ数年、「子供」で残念な思いをすることが滅多にない。なぜだろうと思っていたら、先日、あるリベラル系の識者から「今は、“子供”のほうがスタンダードだ」と言われた。時代はそうして右傾化している、との愚痴を聞いた。