なんでも文部科学省の方針が変わったらしい。不勉強で知らなかったので、慌てて調べてみると、2013年の9月、〈文部科学省はこのほど省内の公用文書の「こども」の表記を漢字書きの「子供」に統一することを決めた〉と報じられていた。〈子供と表記しても大人の「お供」のような否定的な意味はないと判断し、公用文書は漢字表記との原則を再確認。7月刊行の文部科学白書では語句を「子供」に統一した〉とのことだった(日経新聞より)。
「子供/子ども」問題にはいろいろな学説があるのだが、以下については学術的見解がおおよそ一致している。「こども」の語は、「こ」に、複数を表す接尾語「ども」がついたもの。表記は、「子等」「児供」「小共」など様々だったが、明治以降は「子供」にほぼ統一された。その「供」は当て字であり、特段の意味を有するものではない、と。
だから、2013年の文科省の判断と決定は、突飛なものではないのである。交ぜ書きの問題性を考えれば、ごくまっとうな話だと思う。なのに、私にその情報を与えてくれたリベラル系知識人は、苦々しい顔をしていた。はっきり「右傾化」と嘆いていた。
2013年の9月は、どんな政治状況だったか。民主党政権が倒れ、第2次安倍内閣がその勢いを増していた時期だ。ときの文科相は下村博文。昨今、注目の日本会議の偉いさんで、「親になることで、人生は豊かになります」と説く「親学」の推進者でもあった。文科省の「子供」統一には、その下村大臣の意向が強く働いたという。なるほど、そういう意味で右傾化……。
私は、「親学」など余計なお世話だと思うし、教育分野での安倍内閣のあれこれには、ずっこけ復古調を感じ取る日本人だ。リベラル系知識人氏がああいう顔になるのも分らないではない。
でも、これはこれ、それはそれ、と考えたほうがいいことも多く、イデオロギーとは別のところで「子供」オッケーではないだろうか。文科省が、「子ども」狩りをしているなら問題だが、国家権力の先兵的存在の警察庁だって、いまも「子どもの安全対応マニュアル」とか「子ども防犯テキスト」といった表記を使っている。そのほうが柔らかくて暖かい感じがして、国民に親しまれそうだから交ぜ書きオッケーの判断なのだろう。
私が最近感じている風向きの変化は、「子供/子ども」問題がようやく改善されてきた、という思いである。好みでどっちでも使える自由。それと右傾化の話は切り離したいのだが、そうは問屋が卸さないのだろうか。
リベラル系知識人氏は、「“子供”を使ったら、子どもの問題に意識的な人々は君の話を聞かない」とアドバイスしてくれた。しかし、未だにそんな感覚でいるから、それこそ右傾化が進む。問題はむしろそこではないか。