◆晩年の大仕事はディズニーランド誘致
長男・聡一郎が生まれた昭和38年には京成百貨店の嘱託、その後は、グループのレジャー部門を担い、後に東京ディズニーランドを誘致するオリエンタルランド(以下、OLC)の嘱託になり、昭和45年には京成百貨店取締役、昭和50年にはOLCの取締役にも就任した。
「総務部嘱託」がなぜグループ企業の役員にまでのぼりつめることができたのか。京成電鉄やOLCに問い合わせても、「当時の資料が残っておらずわからない」ということだが、圭子は京成電鉄第五代社長で、東京ディズニーランドの生みの親といわれるOLC初代社長・川崎千春から目をかけられていたことが大きいと話す。
「川崎さんに可愛がられていて、個人的な相談も受けていた。東京ディズニーランドができる前、私を連れてアメリカのディズニーランドの視察へ行っていますが、それも川崎さんからの依頼。海外で市場調査のようなことをしていたのです」
川崎は、渡辺の記者としての調査力を買って抜擢したのかもしれない。その一方で長男・聡一郎から興味深い話も聞いた。
「親父には不思議な人脈があった。若い時にテレビ喫茶を始めたのは正力松太郎からテレビをたくさんもらったからだと言っていたし、有名な総会屋の志賀さんという人と付き合っていて、毎年お歳暮をもらっていた」
この「志賀さん」とは、東京ディズニーランド建設時の埋め立て事業でマスコミを賑わせ、川崎との親交が囁かれた総会屋・志賀三郎のことだ。
日本テレビ初代社長・正力松太郎も京成電鉄とかなり近しい。戦前、外部招聘を受けて京成電鉄の総務部長となり、京成電鉄が上野・浅草に乗り入れられるように政治家に働きかけて「贈賄」で有罪判決を受けた。また、正力が設立した「大日本東京野球倶楽部」(後の東京巨人軍)の筆頭株主も京成電鉄だった。
川崎が相談役となり経営の一線から退くのと時を同じくして、京成グループとも徐々に疎遠となっていった60代後半の渡辺は、「千葉日報」の論説委員などを務めた後、京成電鉄が開発したベッドタウン・京成八千代台で、余生を過ごした。
そして平成9年8月、妻と娘に看取られながら84年の生涯を終える。356か所の売春地帯を歩き回り、1000人を超す女たちに「取材」を続けてきた無頼さのかけらもない穏やかな最期だった。
※週刊ポスト2017年1月27日号