◆家族は誰も知らなかった
芥川賞候補作家として名を知られるようになった渡辺は昭和15年に中外商業新報社(現・日本経済新聞社)に入社。3年後には陸運協力会が発行していた運輸業界紙「陸輸新報」(現・交通新聞)に移籍し、終戦を挟む約11年間、新聞記者として活動した。記者として全国を飛び回る傍ら、もう一つの取材活動も本格化していった。『ガイド』を復刊したカストリ出版の渡辺豪が言う。
「渡辺氏は芥川賞の候補になった頃から赤線を取材し始めました。『ガイド』の〈はしがき〉には、〈旅をしたいばかりに大新聞をやめ、交通を専門とした業界新聞の記者を八年間続けました〉とあります。ここでいう〈旅〉とはつまり赤線取材のことで、交通系の新聞社のほうが大手紙よりも自由があり、赤線を回りやすいから移籍したのでしょう」
だが、戦後しばらくすると、渡辺に転機が訪れる。昭和25年に新聞社を辞め、「新東京通信社」という出版社を自ら創設、『交通レポート』という週刊業界紙を発行。それと前後するように、京成電鉄の「総務部嘱託」という立場に就いた。
当時、収入が不安定な作家やジャーナリストが社史編纂などで副収入を得るため、大企業の嘱託となることは珍しくなかった。渡辺にとって、京成電鉄が重要なスポンサーだった。
また、私生活にも大きな変化があった。昭和26年、38歳の時に社交ダンスの講師をしていた淑子という22歳の女性と結婚したのだ。著書を読む限り、新婚時代はもちろん、昭和30年に長女が生まれてからも、各地の女性たちへの「取材」は続けていたようだが、長女が2歳になったあたりで、渡辺は出版界から忽然と姿を消す。
昭和33年に売春防止法が施行され、赤線が廃業に追い込まれたことも大きいのだろうが、愛娘が物心つく前に、「1000人斬りの赤線ライター」の過去を葬り去りたかったのかもしれない。
長女・圭子が抱く父親像は「別人」のようだ。
「平成26年に復刻版の話をもらうまで、父があんな本を書いていたとは知りませんでした。母を溺愛していたし、すごく家族思い。ビジネスマンとして海外を飛び回っていましたが、出張がない時は必ず家にまっすぐ帰宅して、家族全員で晩ご飯を食べるような人でした」
渡辺は圭子が10歳になった時に業界紙を廃刊にし、京成グループにどっぷりと肩までつかっていったのである。