戦時中、秘密裏に製造された偽札運搬の始発は登戸駅だった
そうした複雑な思惑から陸軍や憲兵に任せることはリスクが高いと判断。それでいて諜報活動に長けていなければ任務を完遂できないので、諜報活動の訓練を受けている中野学校の卒業生に白羽の矢が立つことになった。
偽札は、一度に木箱40個前後が運ばれた。川崎駅は利用者も多く、南武線から東海道本線の乗り換えはもっとも人目につきやすい。それゆえに、川崎駅での乗り換えが一番神経質になったという。
偽札運搬は列車で長崎港駅まで行き、そこから船で上海に渡るのがメインルートとなっていた。しかし、状況に応じて各自の判断でルートを変更されることもあった。そのため、門司駅(現・門司港駅)や神戸港駅もよく利用された。いずれも上海に渡航するのには便利な港湾都市の玄関駅として栄えていた。
戦局が悪化してくると、上海に直接渡るルートは高いリスクを伴うようになる。そうした事情から、舞鶴港駅経由で日本統治下にあった朝鮮半島の釜山に渡るルートも生まれた。釜山から再び列車に乗って、北京を経由で上海まで移動するルートだ。いずれにしても、経済活動が盛んな上海が偽札作戦の主戦場だった。
1944(昭和19)年、政府は国民に対して鉄道による移動を制限する閣議決定を下した。しかし、それはあくまで一般国民を対象にした話。密命を帯びた偽札運搬者には関係がなく、列車を自由に利用できる旅行証明書が付与された。
彼らには鉄道利用を咎められるという不安はなかっただろうが、列車内には定期的に憲兵が巡回をしていた。偽法幣を運ぶというミッションは、憲兵にも隠さなければならなかったから、相当な精神力を必要とした。
偽札の製造を開始した1940(昭和15)年に、登戸研究所が製造した偽札は3000万元。それが太平洋戦争終結の1945(昭和20)年には、40億元にまで達していた。偽造する研究所の所員も大変な労力を要しただろう。
それ以上に運搬する頻度も増えた。回数が増えれば、余計に目立つようになる。運搬を担当する者たちのプレッシャーが、重くなったことは間違いない。
偽札を運んだ列車の様子などは、いまだつまびらかにはされないまま現在に至っている。