日本を世界に冠たる製造業大国にした最大の原動力はメイドインジャパンという言葉がブランド化するほどの品質の高さだった。その品質は、システマチックに生み出されたものではない。工場で働く労働者たちがおよそ賃金に見合わない素晴らしい創意工夫を連発し、モノを作る現場で磨き上げてきたものだ。
日本のこのモノづくり手法は世界に影響を与えたものだ。製造業だけではない。たとえば流通・通販世界大手、アマゾンの創業者ジェフ・ベゾス氏は、経営者ではなく現場が品質コントロールの主役になるというトヨタの前身、豊田自動織機の精神について、事あるごとに賛辞を送っている。社内でも、現場が行灯をつけてラインを止める決断を行うことになぞらえ、「Andon CS(顧客満足)」という現場主導の品質管理を行っているくらいだ。現場力というのはそれだけ大事なのである。
ゆえに、工場のプライドは高い。ある日系自動車メーカーの工場を取材したとき、雑談で「2時間ごとに10分休憩、それに45分の昼休みを加えただけで、こんなに集中力を要する作業を毎日よくも続けられるものですね」と言ったところ、「そりゃあ我々はそのへんのホワイトカラーなどとは違いますからね」と、ホワイトカラーの人たちもいるところで平然と言い放ち、驚いたことがある。
物言いはいかがなものかと思ったが、それだけ現場は自分たちの仕事に高いロイヤリティを持っている。トヨタをはじめ日本の自動車メーカーを世界に冠たる存在に押し上げた流儀、すなわち“品質は現場で作り込む”立役者となれば、社長だって自分たちがいるから飯が食えるくらいの感覚になっても不思議ではない。
しかし、これは同時に弊害も生んでいる。あまりに製造現場のテリトリー意識が強いため、工場ごとに流儀が決まってしまい、メーカーとしてスタンダードを作れないのだ。
「ある工場のやり方を標準にしようとすると、他の工場から“馬鹿野郎! 俺たちは昔からこのやり方で最高のものを作ってきたんだ”と反発が出る。もちろん一定の標準は作るのですが、解釈や運用は工場に任されているところが少なからずある。
本当はもっと近代化させなければと思うところもあるのですが、ただでさえ重労働である製造に従事する人たちのモチベーションを、規則の強要で下げでもしたらと、恐くてなかなか触れられないんです」(前述の日系自動車メーカー社員)
日本の自動車メーカーの工場に今も色濃く残るもうひとつの風習は、職人の世界のような徒弟制度だ。“技能は盗め”という気風は昔ほどではないが、「モノづくりってのはなあ、甘いもんじゃないんだ。お前などまだまだだ」と上が下に接するのはごく普通のことだ。
スバルで問題となったのは群馬製作所。スポーツカー「86/BRZ」のラインオフ式のさい、共同開発相手であるトヨタ自動車の要人や幹部も顔を見せたが、そのうちの一人は古い建物を見て、「ここは旧中島飛行機の系譜を受け継ぐ伝統ある工場。我々のような新参者とは歴史が違う」と緊張の面持ちで筆者に言った。世界最大級の自動車メーカー幹部をしてそう言わしめるほど、伝統というものは威力がある。
その群馬製作所が「100%でも一人前と思うな。そこからが修業というのが俺達の流儀」と、徒弟制度時代のようなことを言うのだ。現場での作りこみが命の日本流モノづくりにおいては、経営者とてその声を信頼し、尊重するしかない。そのやり方が本当にいいのかどうかといったチェックが甘くなるのも無理はない。
吉永社長は会見で、
「私は就任以降、世界でちゃんとしたモノづくりができると認められるような企業にならなければと言ってきた。
欧米メーカーではモノづくりの現場で誰がいつ何をやったか、製品を構成している部品の素性はどのようなものかなどのトレーサビリティを確保することなど当たり前のようにやっている。うちはそういうことができていなかった。今回のことをきっかけに、もっとちゃんとしたメーカーにならないといけない」
と唇を噛んだ。それは理想論ではある。が、これまで徒弟制度のようなメンタリティを維持し、それで世界的な成果も生んできた自動車工場という“象牙の塔”の透明性をいきなり高くするのは難しいことだ。
今回の完成検査問題はたまたま日産、スバルで発覚したが、モノづくりの立役者である工場の扱いに苦しみ、弊害を内包したままになってしまっているのは両社に限らず、日本の古典的製造業全体に共通する課題だ。
日本が世界に誇ってきたウェットな現場力をドライでシステマチックな今どきの工場のあり方とどうマッチさせていくか──。日本のモノづくり力の本当の危機は品質問題や不祥事ではなく、日本流の良さをどう近代化させるかというチャレンジが進んでいないことにあるのではないか。
■文/井元康一郎(自動車ジャーナリスト)