例えば、著者は江藤淳の自死を「論壇に波紋」と記すが、文学者として死んだというのが当時のぼくの実感だ。些細なことだが、そういう細部に、「大学」や「論壇」への拘泥と私的な喪失感を感じる。今はその喪失に耐え、本書はなるほど、そういう場の外で生きていくという決意宣言なのだろう。しかし、その「外」はどこなのか?
著者は、在野の知として柳田國男が市井の人々を「探求の対象」とした、とこれも自明のように記す。だが柳田はこの国の人々全てが近代を生きるための考える能力を獲得し得るために生きた人で、つまり学ぶ術を「つくろう」とした人だ。研究対象にしたのではない。厳しい言い方だが、著者の求める「知性」は「知性」的対話の担保され得る場が前提ではないか。
ぼくには「知性」の復興などは、あらゆるくだらない現場での「近代の立て直し」しかあり得ないと思う。だが、政治的主張としてはそう遠くない著者と、どこか具体的な場所ですれ違うことがこの先、あるのか。あればいい。そういう場所で作用する「知性」しか、ぼくは誰に対しても信じない。
※週刊ポスト2018年6月15日号