さて、その五箇条は簡潔を極め、意味がいろいろに取れる。戦後憲法の同じ第九条から自衛隊の合憲論も違憲論も導かれてしまうのに優るとも劣らぬダイナミック・レンジを、五箇条のそれぞれが持つ。結局、「御誓文」の解釈を巡る闘争が、そのまま日本近代史の振れ幅になったと言ってもよい。
まず第一条「廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スベシ」。もともと「御誓文」は、新政府が設けるだろう議会の基本方針のつもりで、越前藩の由利公正や土佐藩の福岡孝弟が用意したものだった。長州藩の木戸孝允らがそれを直し「御誓文」に仕立てた。福岡の原案では第一条は「列侯会議を興し万機公論に決すべし」。列侯会議とは、有力諸大名等を議員にしての国会のことだろう。
列侯会議のアイデアは、ペリー来航の前から、尊皇攘夷論の中心人物だった水戸の徳川斉昭が当時の幕府老中首座の阿部正弘に提案していたものだった。西洋列強と張り合うためには、日本の国力を結集せねばならず、それには諸大名の主体的参加が不可欠で、これまでのような数人の老中による秘密政治では誰も付いてこないというのである。福岡はその思想を受け継いでいた。
ところが木戸孝允や公家の岩倉具視にとっては、それは望ましくなかった。幕府の老中政治のように、新政府の中枢の意思も限られた人々で決められるようにしておきたかった。非常時には、船頭の多い民主主義よりも寡頭や独裁の密室政治の方がよいと考えていた。
とはいえ、何らかのオープンな会議体はいずれ必要だろう。そこで「広く会議を興し」とだけして、会議の性質を具体的にせず、玉虫色にした。これによって木戸や岩倉はすぐに国会を設けずに済んだ。