それがまた解釈の幅を生む。明治期の重要な公法学者、有賀長雄は、英米流の自由主義や個人主義に基づく自己実現最優先の生き方を天皇が擁護する姿勢を明らかにしたのが第三条と解した。志を遂げて退屈せずに生きるとは、そういう意味に決まっているではないか。対して、有賀の論敵、穂積八束は、天皇中心の国で臣民として志を遂げるのだから、それすなわち国家に奉仕する生き方を指すと説く。まさに日本近代の振れ幅である。
第四条「舊來ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クべシ」と第五条「智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スべシ」も一筋縄ではゆかない。「旧来の陋習」は武家政治や封建政治だとしても、「天地の公道」が西洋流の国際社会の秩序なのか、天皇中心の日本独自の正しい道なのか、儒教的な道徳秩序の世界なのかで、第四条は恐ろしい振れ幅を持つ。
「智識を世界に求め」が「文明開化」による西洋の学問と技術の習得だとしても、それによって「振起」された皇国日本が、国際親善の道を歩むのか、それとも改めて尊皇攘夷を掲げて世界に挑戦するのかについては、第五条はオープンである。第四条と第五条は「大東亜戦争」を否定も肯定もできるのだ。
1946(昭和21)年1月1日、昭和天皇はいわゆる「人間宣言」に「五箇条の御誓文」を引用した。むろん、第一条が民主主義、第二条が平和的経済主義、第三条が自由主義、第四条と第五条が国際親善の精神を表していると解してのことであろう。明治維新は戦後民主主義と直結する。「御誓文」は戦後も有効。昭和天皇はそう宣言したのだ。われわれは今も「御誓文」の時代を生きている。揺れ動く解釈に翻弄されながら。
【PROFILE】かたやま・もりひで●1963年生まれ。慶應大学法学部教授。思想史研究者。慶應大学大学院法学研究科博士課程単位取得退学。『未完のファシズム』で司馬遼太郎賞受賞。著書に『「五箇条の誓文」で解く日本史』(NHK出版新書)、『平成史』(佐藤優氏との共著。小学館)などがある。
※SAPIO2018年9・10月号