──当時はバブルど真ん中でした。
下:開発のトップから「世界一のバスを目指せ!」とお墨付きをもらっていました。技術屋としては最高の時代でしたが、コスト部隊からは怒られました(笑い)。ただ、そうした現場の熱意が認められたのか、私は31歳で「セレガ」の製品発表会も任せてもらえました。
もともと用意されていた原稿はバスの性能ばかり書いてあったので、自分で全部書き直したんです。単なる性能ではなく、このバスに乗ったお客様がどんな喜びや感動を得られるのか、自分の言葉で伝えたかった。一番うれしかったのは一緒に苦労してきた同年代の仲間が私の説明を聞いて感動してくれたことですね。
その経験を通じて、若い社員でも会社や業界を動かせるんだと自信を持ちました。「平成の時代は僕らの世代がもっと頑張らなくては」と強く感じました。
現在、「セレガ」が観光バスのナンバーワンブランドに成長したことは非常にうれしく思っています。
──その後、岡山の販売会社への出向や、米国駐在(米国日野販売上級副社長)も経験した。
下:販売会社への出向も貴重な経験でした。20歳前後の営業マンと一緒に回って色々な話をするんですよ。「(営業先の)奥様にお茶を出してもらえるようになったけど、ご主人はまだ会ってくれない」とか。僕ら技術畑の人間はいい商品が作れれば売れると思っていたけれど、お客様に近い人たちは1台売るのにこんなに大変な思いをしているのかと思い知りました。
2002年からのアメリカ駐在は非常に過酷な日々でした。日野はキャブオーバーというタイプのトラックを売るんですけど、アメリカはボンネットタイプが主流で苦戦した。それまで10年ずっと赤字で、アメリカ撤退も検討されていました。そのテコ入れを命じられたんです。販売網のスクラップ&ビルド、人とカネを削りつつ新事業にもチャレンジするという終わりの見えないミッションでした。
なかなか不調から抜け出せませんでしたが、2014年頃からはお客様へのきめ細やかなサポート体制などが奏功し、黒字転換できました。