【書評】『もう一人の彼女 李香蘭/山口淑子/シャーリー・ヤマグチ』/川崎賢子・著/岩波書店/2400円+税
【評者】平山周吉(雑文家)
いくつもの名前と顔をもつ美貌の女が、国境を超えて出没する。戦中は日本人にとって都合のいい日満・日支親善の美女「李香蘭」、戦後は自民党の国会議員にまでなったインテリ女優「山口淑子」、一方、ハリウッドでも「シャーリー・ヤマグチ」として活躍した国際派であった。彼女の九十四年の生涯をもっとも通俗的に要約すると、まるでスパイ映画のヒロインであった。
川崎賢子の『もう一人の彼女』は、生前に何冊もの自伝を書いた女優の書かれざる「陰」の部分を調べ上げた意欲作である。その「陰」とは、インテリジェンス(情報・諜報戦略)空間に記された彼女の足跡である。
李香蘭、山口淑子、シャーリー以外の「もう一人の彼女」とは、「才気煥発で政治的な嗅覚が鋭く生命力にあふれた」女であり、「語ったとしても理解をえることの困難な〈私〉」を抱えた人間であった。本人は「彼女について書かれた文献資料のもっとも熱心な収集家にして読者だった」というから、もしも山口淑子が本書を読んだなら、深甚な興味を示し、聡明な反論を試みたかもしれない。それはそれで、見てみたかった光景である。
スターとは常にファンたちの好奇と憧憬のまなざしに囲まれた存在である。彼女の場合は、それだけではなかった。世界各国の情報要員の監視の視線が絡みつき、虚実入り交じった報告が残されたのであった。昭和史でこれほど波乱万丈な一生を送った女性はいないであろう。