──過去の大島作品にも共通する点ですが、とりわけ本作では文章のリズムがとても心地よく感じられます。
大島:リズム……という言葉が的確かどうか、自分でもまだわかっていないのですが、一行一行をすごく大事にしていることは確かです。書いている最中に「あ、違う」ってはっきりわかる瞬間があるんですよ。そうなるとなし崩し的にすべてが駄目になる。何かが駄目だ、どこかで変なことを書いたに違いない、と遡っていくと、「ここだ」とわかる一行が絶対に見つかるんですね。その一行だけリズムのようなものが駄目になっているから、その周辺もグズグズになってしまう。最近ようやくそのことに自覚的になれたので、一行一行をおろそかにしないことは常に心しています。
──水がなければ枯れる花のように、浄瑠璃がなければ生きられない。半二が恋しく思うのは、親でも家でも女でもなく、浄瑠璃一座が並ぶ道頓堀だけ。当時の大坂で道頓堀が、いかに熱気溢れる町だったのかが伝わってきます。
大島:テレビも映画もなく、誰もが文字を読めるわけでもなかっただろうあの時代、芝居は庶民にとって唯一夢中になれる虚構の世界だったはず。巡業を待ち焦がれる地方の人たちにとっては「楽しい虚構がやってきた!」という感覚だったのではないでしょうか。
──虚実が溶け合う“渦”の中心地である道頓堀の町もまた物語の主役ですね。
大島:竹本座や豊竹座が並ぶ当時の道頓堀を描くのは本当に楽しかったですね。道頓堀界隈の人たちは、ほんのちょっとお金を貯めれば別世界に行くことができた。江戸のあの時代の道頓堀は、今の道頓堀とは色も匂いもまったく別物だと思います。
──花火に心を奪われた男の生涯を描いた『空に牡丹』とも重なるテーマ性を感じました。花火と芝居。どちらも憂き世のつらさをいっとき忘れさせてくれる、華やかな虚構です。
大島:そうかもしれませんね。そういう意味では、『空に牡丹』で明治時代の日本を、『ピエタ』で18世紀のヴェネツィアをと、異なる時代や国を描いたからこそ、この『渦』の世界を描くことができたのかもしれない。意識しているわけではないのですが、書いているものが繋がっていく。そんな感覚はありますね。
◆虚実すべてを呑み込む渦
──大衆が虚実の“虚”の世界に熱狂せずにはいられなかったように、己の魂を削って創作に人生を捧げた男たちの業も描かれます。幾多の浮き沈みを経て後世に残る『妹背山婦女庭訓』を生み出した半二、彼の同志でもあった歌舞伎(狂言)作者の並木正三、表現者として際限ない欲を持っていた人形遣いの吉田文三郎。いずれも実在の人物ですね。
大島:今のように三人の人形遣いが舞台で顔を出しながら人形を動かす、という形は初代文三郎が考案したといわれています。それ以前は人形遣いは顔を出さずに、黒子に徹していたそうなんですね。でも、この文三郎はすごく目立ちたがりな人だったみたいで(笑)。
──大衆と創作者、虚構と現実、史実と想像。すべてが渾然一体となって、大きな“渦”を作り出す。これまでさまざまな作品で「物語る人」を描いてきた大島さんの集大成では?
大島:どうでしょうか。私としては、これで「書き切った」とは思えないんですね。『妹背山婦女庭訓』のどこに自分がそんなに惹かれたのか、その答えを求めて書いた部分はありますが、書き終えたからといって答えがわかったわけでもなくて。すべての作品がそうなのですが、刊行前の時点では自分の中で生々しすぎて整理できていないんですね。もう少し時間が経ってから、自分の中で答えが見えてくるのかもしれません。