そして、蜜月の関係を築き上げた城内が公開されていく。ベースは古風な宮殿調で統一されている。しかし、「ネバーランド」の家具からは宮殿調の特徴である一族の歴史や生活感が感じられない。あくまでも宮殿“調”、くたびれた風合が作為的に演出されている。ゆえに傷や汚れが奇妙に映る。
しかし、当時子供だった彼らにとっては関係のないことで。奇妙さよりも勝るのが興奮だ。なんたって「ネバーランド」の園内には遊園地、動物園、ゲームセンター、シアタールームもある。広大な敷地内を移動するための「ネバーランドバレー鉄道」も走っている、髭をたくわえた駅長さんも……。売店にはお菓子が並ぶ、もちろん食べ放題。子供からすれば夢の島、妄想していた全てが目の前にあるのだ。更にアテンドしてくれるのは世界一のスーパースター、誰しもが憧れるマイケル・ジャクソンである。
子供は遊ぶという行為に関して大人以上に貪欲だ。ある程度、年を重ねていくと「こんなことやっていていいのかなぁ……」と遊ぶことにすら不安を感じるから嫌だ。そんな悩みを持たず、体力も有り余っている小学生にとって「ネバーランド」は欲望を全て満たしてくれる場所。唯一無二、僕とマイケルにとっての聖域である。
そして、2人の少年は親といる時間を減らしていく。「ネバーランド」に魅入られた結果、親よりもマイケルと一緒にいることを自ら選択。最終的に寝食を含めた全ての時間をマイケルに捧げる。
『ネバーランドにさよならを』の鑑賞前は、子供をマイケルに預けっぱなしにするなんて、報告者たちの親も普通じゃないのだろうと考えていた。しかし鑑賞後、「ネバーランド」では親の判断力が低下しても仕方がないと思えてくる。
「ネバーランド」は「子供時代がなかった自分が子供に戻れる場所」というマイケルの歪んだ情念から生み出された。異常な想いが込められた地では変な磁場も生まれる。本作で描かれたマイケルを含めた全ての登場人物、彼らの言動は、狂っている。その狂いは、磁場によって、正しい判断が出来ない状況へと陥ったがゆえのものだったのだろう。
本作の最後、証言男性は「見ての通り身体は大人だよ、ただね、僕の心は幼い心のままなんだ」と独白する。親と離れてしまったために取り残された彼のなかの「永遠の子供」は、未だ「ネバーランド」を彷徨っている。また、自らピーター・パンとなり子供を従えたようなマイケルの虚無感は、その結果、少しでも薄らいだのだろうか。
本作の衝撃度は桁違いである。映像を観るというよりも「ネバーランド」というアトラクションに乗る行為に近い。闇の濃度が濃く、危うさゆえの魅力も孕むからややこしい。そこはドス黒い場所だと理解しているつもりだ。しかし、心のどこかで「行ってみたいな……」といった感情がなぜか芽生えてくる。不謹慎な欲望だと自戒しつつも怖いもの見たさが勝る。「ネバーランド」の引力に引かれ、つい城門を開けたくなるのだ。