朝廷が2つ並立した南北朝時代。初代将軍の足利尊氏と並立状態を終わらせた3代将軍義満の間に挟まれたせいで、つなぎ程度に扱われがちな2代義詮だが、前述した山田教授は義詮の書状を評してこう述べている。
「天皇とか将軍の字というのは王者の気分で生きていますので、字も大きいし常人では書けないような、良いのびのびした字を書くという特徴があります」(同前)
義詮の人物像は地味どころか、きちんと帝王学を身に付けた大物というわけだ。足利将軍直筆の書状はただでさえ珍しいが、義詮のものであればなおさらである。さらに、その内容にも重要な点があった。
「長谷城が没落したとのこと、おめでとうございます。このところ、心苦しく思っていました。詳しいことは代官が伝えます」
従来、この書状は鎌倉幕府を開いた源頼朝のものと見なされていたが、足利義詮のものとなれば南北朝史は大きく見方が変わってくる。“つなぎ”と思われていた義詮の代に、南朝の重要拠点を陥落させたというのだ。足利義満の代を待たずして大勢が決していたとなれば、義満の功績に帰せられてきた多くが実は義詮のものであり、義詮が過小評価されてきたことになる。
長谷城の陥落時期はおろか陥落の事実それ自体も、南朝目線で記された『太平記』や室町幕府の創立過程を記した『梅松論』をはじめ、当時の公家や僧侶の日記にも記されておらず、謎のベールに包まれている。今回の発見はその事実の確たる証拠になることに加え、陥落時期と長谷城の所在地を特定する手がかりになるとも期待される。
長谷城跡としては現在の三重県多気町長谷にある山城跡が有力視されながら、これまで確証を得られていなかった。もし場所の特定に至れば、中世の政治史が塗り替わる可能性、教科書が書き換えられる可能性があると専門家らは見る。
あまり実感を伴わないかもしれないが、日本は世界屈指の古文書大国。歴史ある寺社や旧家の蔵には貴重な書状がまだまだ数多く眠っているはずで、今後も歴史を塗り替えるような大きな発見があることを期待したい。
【プロフィール】しまざき・すすむ/1963年、東京生まれ。歴史作家。立教大学文学部史学科卒。旅行代理店勤務、歴史雑誌の編集を経て現在は作家として活動している。著書に『ざんねんな日本史』(小学館新書)、『いっきにわかる! 世界史のミカタ』(辰巳出版)、『いっきに読める史記』(PHPエディターズ・グループ)など著書多数。最新刊に『ここが一番おもしろい! 三国志 謎の収集』(青春出版社)がある。