◆家康に仕えた青い目のサムライ「三浦按針」の遺骨発見か
徳川家康には複数の西洋人が仕えていた。なかでも有名なのが八重洲という地名の語源となったオランダ人のヤン・ヨーステン(耶揚子)とイギリス人のウィリアム・アダムスだ。後者は家康の外交顧問として活躍、三浦按針という日本名を与えられ三浦半島に領地まで与えられた。1620年に肥前平戸(現在の長崎県平戸市)で亡くなったとされる。
平戸市の崎方公園内には「三浦按針墓地」と命名された区画があり、2017年に開始された発掘調査とDNA鑑定の結果、今年の4月になって、そこに葬られていたのが本当に三浦按針である可能性が高まった。
科学鑑定によると、骨の主が死亡したのは1590年から1620年の間。DNAの塩基配列は日本人にはなく、北・西ヨーロッパ人に多い「ハプロタイプH1」。この期間に平戸で死亡した西洋人は三浦按針を含めて10人いるため、まだ確定とはいかないが、平戸市は決定的な証拠を得るため、按針の親族の子孫を求めて情報収集中とのこと。見つかることを期待したい。
◆大石内蔵助「吉良邸討ち入り」前日の心情を綴った手紙
兵庫県赤穂市立歴史博物館で開館30周年記念の特別展「元禄赤穂事件」が開催中(2020年2月4日まで)だが、そこで一番の目玉こそ、これまで「所在不明」とされていた大石内蔵助の書状の実物である。宛先は妻りくの父で、記されたのが討ち入り前日という大変貴重なこの史料。同館は京都の古書店で売り出されたとの情報を得て取り寄せ、自筆であることを確認したという。
「いとま乞い状」と題されたそこには、「吉良邸に討ち入ることになった。志のある四十八人が妻子や親類の後難を顧みず、あだ討ちを行う所存」などと、討ち入りの経緯や決意が約50行にわたって認められている。「四十八人」となっているのは、討ち入り直前に脱退した毛利小平太を含めているからである。古文書が読めなかったとしても、内蔵助の筆致から、ただならぬ決意のほどを感じ取れるに違いない。
2019年の歴史に関するトピックで目立ったのは、貴重な書状の発見が相次いだこと。一つの発見が、「もしやわが家にも眠っているのでは」という意識の喚起につながり、鑑定や調査依頼が増えているのだろう。
【プロフィール】しまざき・すすむ/1963年、東京生まれ。歴史作家。立教大学文学部史学科卒。旅行代理店勤務、歴史雑誌の編集を経て現在は作家として活動している。著書に『ざんねんな日本史』(小学館新書)、『いっきにわかる! 世界史のミカタ』(辰巳出版)、『いっきに読める史記』(PHPエディターズ・グループ)など著書多数。最新刊に『ここが一番おもしろい! 三国志 謎の収集』(青春出版社)がある。