渡辺錠太郎と末娘の和子(当時8歳)。和子は父が殺される現場に居合わせた(渡辺家蔵)
作家の井伏鱒二(いぶせ・ますじ)も、その一人だった。著書『荻窪風土記』(新潮社)にこうある。
〈渡辺大将の家は荻窪の私のうちの近くにあるが、大将が襲撃されるなど思ってもみたことがない。[中略]
すると玄関の土間に朝刊を入れる音がした。私がそれを取りに起きて再び横になると、花火を揚げるような音がした。いつも駅前マーケットで安売する日は、朝早く花火を揚げる連続音が聞えていた。
「今日は早くからマーケットを明けるんだな」
私は独りでそう言って、新聞を顔の上に拡げたきり寝てしまった〉
さらにこの襲撃が、他の要人のケースと大きく違うのは、渡辺本人が襲ってきた決起将校らに対して反撃していることだ。『渡辺錠太郎伝』著者の岩井秀一郎氏が解説する。
「渡辺は襲撃グループに応戦し、拳銃の弾を撃ち尽くしていました。この日、二・二六事件で襲撃目標とされた人物の中で、応戦した警察官などを除いて、唯一『戦死』したのが渡辺錠太郎でした。渡辺はもともと射撃の名手として知られ、腕に自信があったため、逃げることなく応戦したものと思われます。しかし、襲撃部隊は30人ほどで、軽機関銃や小銃で武装しており、とても渡辺1人(ほかに護衛の憲兵2名)では太刀打ちできませんでした」