「強制収容所で死が隣り合わせにあっても、フランクルは『苦しむことそのものにも意味が与えられる』と考えました。彼は、『まっとうに苦しむこと』は、それだけで精神的に何事かを成し遂げることであり、それを選択することは、最期の瞬間まで他の誰も奪うことのできない人間の精神的自由であるとしています。そして『まっとうに苦しむ』ことにより、人生は息を引き取る最期の瞬間まで意味深いものになると説いています」(舟木氏)
つまり、困難に遭って苦しむことは決して無益なことではなく、必ず意味のあることなのだ。『夜と霧』(新版 池田香代子訳、みすず書房)でフランクルはこう書く。
〈人間が生きることには、つねに、どんな状況でも、意味がある、この存在することの無限の意味は苦しむことと死ぬことを、苦と死をも含むのだ〉
◆難病と闘う子供のように
コロナ時代を生きる日本人は、ナチスの強制収容所のように自由を完全に奪われたわけではなく、明日にも命を奪われるかもしれないという絶体絶命の状態ではない。しかしその一方で、両者には「先を見越すことが難しい」という類似点がある。
「人は慣れたことには安心できますが、未知のことには恐怖を感じます。強制収容所で多くの被収容者たちの心に重くのしかかったのは、『どれほど長く収容所に入っていなければならないのか』がわからなかったこととされます。フランクルは、いつ終わるか見通しのつかない人間は目的をもって生きることができず、精神崩壊現象が始まるとします。このような大変厳しい状況を乗り越えるためにも、有意味感が重要になります」(舟木氏)
「起こっていることには意味がある」と感じる心を持つことは、先が見えない不安を抱える現在の人々が、コロナという禍を乗り越えるためにも必要なことであるはずだ。それはどのような状況においても「私の人生には意味がある」と心に刻み込み、自分が生きていることを無条件に肯定することにもつながる。
とはいえ、現にコロナ禍で身体的に、精神的に、経済的に悩み苦しんでいる人が「これは意味があることだ」と受け止めることはそう簡単ではない。それゆえコロナは強敵であるのだが、舟木さんは困難のなかで有意味感を高めているひとつの事例として「小児がんの子供」を挙げる。