医療の歴史と文学の歴史が、奇妙な縁で結ばれていることがある。諏訪中央病院名誉院長の鎌田實医師が、日本の細菌学の父として知られる北里柴三郎と、夏目漱石『我が輩は猫である』を結んだ意外な縁について綴る。
* * *
明治の文豪の一人であり医師としても知られる森鴎外(1862~1922)と同時代、日本の細菌学の父、北里柴三郎(1853~1931)が目覚ましい活躍をした。北里はドイツに留学し、コッホの下で破傷風菌の純粋培養に世界で初めて成功した。
北里は、当時主流であった「脚気の原因は細菌」とする説を批判したため、帰国後、母校の東大医学部と対立することになってしまった。今でこそ、脚気の原因はビタミンB1不足と知られているが、当時はまだビタミンは発見されていなかった。ビタミンB1不足を招きやすい銀シャリで士気を高めていた陸軍では、日露戦争で4万1千人以上の脚気患者を出し、4千人以上が死亡した。「脚気病原菌説」を取っていた軍医の鴎外の責任は大きいといわれる。
話を北里に戻そう。東大医学部と対立した彼は、小さな伝染病研究所を作ることになる。一見、逆風のようだが、権威や主流から離れ、身軽に研究できたことが幸いしたように思う。
彼はジフテリアの血清作りに成功。さらに1894年、ペストが蔓延する香港に赴いて、ペスト菌を発見する。何度となく大流行を繰り返し、人類の脅威だった感染症を克服するきっかけを作る大発見だった。
ちなみにノーベル賞は、ジフテリアなどの細菌感染に対し、動物の血清を利用した予防・治療法を確立したドイツのベーリングが受賞したが、北里の血清療法の後追いと言われている。