優れた任侠映画には、近代への抵抗がある
井上:荒井さんは『昭和の劇-映画脚本家・笠原和夫』(笠原和夫・絓秀実・荒井晴彦、太田出版)という笠原さんの聞き書きの本を出していますけど、当時、『完結篇』まで5部作ぜんぶをリアルタイムでご覧になっていてどんな感じだったんですか。
荒井:そこで面白いなと思ったのは、深作さんは2作目の『広島死闘篇』(1973)で千葉真一がやった大友勝利のほうに肩入れしてて、笠原さんは北大路欣也がやった予科練の歌を口笛で吹いているような山中正治のほうに思い入れしてるわけだよね。戦争が終わった時、15歳だった深作さんと18歳で海兵団にいた笠原さん。その3歳の違いがものすごく違うんだなって思った。その戦争体験も深作さんは15歳で水戸で勤務動員の工場が艦砲射撃でやられたときに死体をかたずけることをやっていたけど、ただ戦争に対する、大きな暴力というふうに戦争をとらえると深作さんは暴力映画ばかりやっていたけど、暴力を描いて暴力を否定するみたいなことをやるでしょう。笠原さんもやくざ映画をずっとやってきて、やくざってそんなにいいものではない、ろくでもないよと否定する。だから笠原さんに『昭和の劇』でインタビューしていて思ったのは、任侠物が書けなくなってきたと思うのね。嘘っぱちだから。笠原さんがホンを書いた『博奕打ち 総長賭博』(1968・山下耕作監督)は名作って言われているけど、社長の岡田茂には「芸術みたいなのを作りやがって。芸術では客は入らんぞ」って叱られたというふうに言っていた。「任侠道なんてのはねえ、俺はただの人殺しだよ」って映画の最後で鶴田浩二が言うところがあって、あのへんから『仁義なき戦い』につながる感覚があったかなと思うけどね。
井上:東映の第一線でやくざ映画の脚本を書いていた笠原さんたちが、『総長賭博』で様式美とか言われながら、「所詮、やくざなんて人殺しだよ」と言わせたり、深作さんだってその前の『現代やくざ・人斬り与太』(1972)で非常にむき出しの暴力を描き始めたのをリアルタイムで見てくると、1972年にはあさま山荘があったりしているし、そんな時に「義理と人情」の任侠映画なんてウソだよっていうのは観客である荒井さんたちも思っていたんですか。それとも、作家たちが先んじていたということですか。
荒井:いや、どうなんだろう。それは人によると思うけど、高倉健の任侠映画ってあんまり好きじゃなくて、でもあのころ、都市伝説みたいにオールナイトで健さんの5本立てを見て「異議なし!」って声がかかったとか、肩を怒らせて出てくるのが全共闘のメンタリティだなんて言われたけど、そんなのはねえよと思ったけどね(笑)。ただ、「任侠道なんてねえ、俺はただの人殺しだ」というセリフを「マルクス・レーニン主義なんて関係ねえ、俺はただの暴力学生だよ」っていうふうな言い換えはしていました。
井上:だけどそういいながら、有名な橋本治の東大駒場祭の有名なポスターがあるじゃないですか、刺青の高倉健を模した。
荒井:ああ、「とめてくれるなおっかさん、背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く」というコピーね。やくざ映画を支えていたのはそっちの稼業の人とその情婦それから水商売関係と学生と言われていたからね。圧倒的に反権力性みたいなことではやくざ映画に感情移入はしていたんじゃないかな。殴り込みとかはゲバルトやるときの気持ちと一緒だったんじゃないかな。それと任侠映画ではだいたい刑務所から出てくると組は変質しててっていうパターンがある。主人公は変わっていることに対する抵抗で殴り込みをやる。優れた任侠映画には、そんな近代に対するある抵抗みたいな感じがあるよね。で、女が「行かないで」って言わないで、「待っています」って送り出すんだよね。
井上:森さんは大学に入って、高校生の時に未遂に終わった『仁義なき戦い』を見てどうだったんですか。
森:うーん、その前に東映の任侠映画シリーズを見ていれば違う見方ができたのかもしれないけど、見てなかったですからね。そういう意味では比較の対象がないしね。ただうっすらと憶えているのはカメラがものすごい感じでぶん回していて、そのころ、映画サークルにいたから、名画座で小津や黒沢などを観ていたから、こんなグジャグジャなカメラでいいんだとショックを受けた記憶はありますね。あと『仁義なき戦い』を5本一緒に見るとなにがなんだかわかんなくなって(笑)。死んだ幹部が名前が変わって、次の作品では別の組の若頭になっていたり、そのあたりで人間関係がグジャグジャになってて、だからそのころはあまり深い見方ができなかったですね。最近、このイベントのために、アマゾンプライムで第一作目だけは見たんですけど。