アカデミズムへの宣戦布告だというのだ。
菅氏の「学者ぎらい」の背景に浮かぶのが、“田舎から出て苦学した”と語られてきた経歴に潜む学歴コンプレックスだ。
「私には秋田の農家の長男坊の血が流れている」。菅氏はしばしばそう語るが、実は、菅家は「教員一家」でもある。
父の和三郎は高等小学校を卒業後、満州に渡って満州鉄道に勤め、敗戦後、苦労して故郷の秋田に引き揚げ、いちごの栽培を成功させて長年、生産出荷組合長や町議を務めた地元の名士だ。母は戦前、尋常小学校の教師を務め、2人の姉も北海道教育大学などを出て教師となった。
菅氏が高校時代の昭和40年代前半、4年制大学への進学率は15%程度、女性に限れば4~5%にすぎない。そうした社会状況で大学を出て教師となった姉たちは紛れもなく「学歴エリート」だ。
しかし、菅氏は単身上京して板橋の段ボール工場に就職する。父からは「農業大学校(当時は農業教育センターなどという名称だった)」への進学を勧められたという報道もあるが、農家を継ぐ気はなかったようだ。
本当は教師になりたかった?
ノンフィクション作家・森功氏の著書『総理の影 菅義偉の正体』の中で菅氏はその時の心境をこう振り返っている。
〈母や姉だけではなく、叔父や叔母など親戚が教師だらけだったので、教師にだけはなりたくなかった。かといって、農業を継ぐのも嫌でした。それで、ある意味、逃げるように(東京へ)出てきたのです〉
段ボール工場で働いた後、菅氏は大学進学を目指すが、国立大学の受験に失敗する。父の和三郎氏(2010年死去)が生前、大鹿靖明・朝日新聞記者のインタビューにこう語っている。
〈アレは全然勉強しなかったの。『バカか』と言ったの。北海道大を受けて弁護士か政治家になりたがっていたけれど、全然勉強しないから入れるわけないの〉