ホテルや建築、近現代史などをテーマに「旅する作家」として活躍する山口由美氏が初めて挑んだ本格評伝『ユージン・スミス 水俣に捧げた写真家の1100日』は、世界的な写真家と水俣の人々との濃密な関係を描き出して高く評価され、2012年の小学館ノンフィクション大賞を受賞した。しかし、同書を読んだある関係者から事実誤認の指摘が届き、新たな事実が明らかになった。著者の山口氏が自らレポートする。
* * *
『ユージン・スミス 水俣に捧げた写真家の1100日』は、写真家ユージン・スミスの水俣における日々を追ったものだが、大きなテーマのひとつが、写真集『MINAMATA』を代表する一枚の写真「入浴する智子と母」が封印に至った経緯だった。
出版から7年目となる今夏、封印に至る経緯について書いた内容に事実誤認があるとのご指摘を頂いた。記述には、確かに私の憶測が招いた間違いがあった。
豊橋市民のみなさまの名誉を傷つけ貶めたことを深くお詫びいたします。
事実と異なる内容が関係者の心を深く傷つけたことを心からお詫びすると共に、何が真実であったのか、著者の義務として、あらためて説明したいと思う。
「入浴する智子と母」の封印とは、被写体である上村智子さんのご両親とユージン亡き後の著作権者である元妻のアイリーンとの間でかわされた1998年10月30日付けの文書にもとづき「写真に対する決定権」をご両親に返したことを意味する。これ以降、ご両親の承諾なしに写真の新たな出版や展示はしないという取り決めだった。
もとより「入浴する智子と母」は、ユージンとご両親の信頼関係から撮影できた希有な作品である。それが20世紀を代表する写真のひとつであることは今も変わらない。
そして少なくとも1975年に『MINAMATA』が出版された当時、写真が発表されたことをご両親は好意的に受け止めていた。これは私がアリゾナ大学のCCP(センター・フォー・クリエイティブ・フォトグラフィー)に保管されていたユージンの遺品から発見したご両親の手紙が証明する事実でもある。
それなのに、なぜ写真は封印されたのか。
何が「智子を休ませてあげたい」という思いに至らせたのか。
いきついたのが1996年9月28日から10月13日まで東京・品川で開催された「水俣展」だった。この時、ポスターやチラシに「入浴する智子と母」の写真が大量に印刷され、その一部が踏まれたり、ちぎられたりした。原田正純医師の著書『宝子たち 胎児性水俣病に学んだ50年』にも証言があり、私も水俣での取材で実際にその事実を聞いた。この写真展における配慮を欠いた扱いが、封印に至る最初のきっかけを作ったのだった。
だが、不思議に思ったのは、それから封印に至るまで2年の月日があったことだ。
そして「水俣展」がその後、豊橋でも開催されたことを知った。
私は「水俣・豊橋展」が、どのように計画された、どのような内容の「水俣展」であったか、きちんと把握しないままに、豊橋展も東京展と同じ内容であると憶測し、1998年8月の豊橋展を封印が決定的になった理由のひとつであろうと、間違った記述をしてしまったのである。
ところが、今回のご指摘により、豊橋展ではポスターやチラシには「入浴する智子と母」は使われていなかった事実を知った。
同じ写真を使わなかったのは、上村さんのご両親の「雨に打たれ、人の足に踏まれては智子がかわいそう」という気持ちに豊橋の方々が共感したからであった。写真それ自体の展示は行ったが、開催後は、ご両親に感謝を込めて報告し、後々まで続く信頼関係を得たという。
「水俣展」は、水俣フォーラムが主催した最初の東京展以降、さまざまな主催者により、さまざまな形で開催されてきたこともあらためて知った。水俣フォーラム主催のものだけでなく、企業・団体や大学、行政との協働による展覧会も多い。
そのひとつが、民間の有志である水俣・豊橋展実行委員会が主催した水俣・豊橋展だった。東京展の主催者、水俣フォーラムは協力という立場でしかなく、展示した写真も水俣フォーラムが所有するものではなかった。