豊橋展は、東京展の実行委員のひとり・田嶋いづみさんが豊橋出身だったことから計画された。今回、事実誤認を指摘してくれたのは、田嶋さんからのお手紙だった。
本当に大切なことだから、本当に大切な人に伝えたい、という真摯な思いから始まり、その後、豊橋と同じ内容の「水俣・浜松展」が開催され、そこから「『水俣』を子どもたちに伝えるネットワーク」が生まれた。上村智子さんのご両親は、最初に賛同のカンパを寄せてくれたひとりだったという。今回のご指摘を受けて、「水俣」を子どもたちに伝えるネットワークの豊橋窓口を務める金子芳美さんをはじめ豊橋展実行委員の方々にお会いし、どんな思いを抱いて豊橋展開催を実現したのか、学ばせていただいた。
私は封印の理由を探すあまり、最初の東京展における「入浴する智子と母」の写真の扱いにばかり目がいってしまったが、各地で開催されてきた「水俣展」が、水俣病の事実を広く伝え、問題提起してきたことの意義は大きい。そうした活動がなかったら、水俣病の問題はもっと風化していたに違いない。今回のご指摘で、水俣の真実を伝えようとする水俣展の活動をひとくくりにし、否定的にとらえてしまった過ちに気づいた次第である。
実際、私も2010年の「水俣・明治大学展」に足を運んだのが、本格的な取材を始める第一歩であったことを思い出す。
水俣展は、私の水俣の出会いの原点にもあったのだ。
『ユージン・スミス 水俣に捧げた写真家の1100日』を取材していた最中に東日本大震災がおきた。水俣への現地取材は、その直後だった。福島から避難してきた人たちが差別される状況に、かつての水俣病と同じものを感じると取材相手のひとりがつぶやいた。その言葉が今も忘れられない。
現在のコロナ禍でも、未知の病がいかに不当な差別につながるか、私たちは再び思い知らされている。地方都市で、最初の感染者になった家族が引っ越しを余儀なくされた話を聞いて、愕然とした気持ちになった。
水俣を後世に伝えていくことの意義は、時を経て、ますます重層的な意味合いを持つようになっているのかもしれない。
今回のご指摘の直接的なきっかけとなったのが、ユージン・スミスを主人公とする映画『ミナマタ』(2020年公開予定、日本での公開日は未定)の完成だった。
この映画の公開が、水俣病の問題と、その真実を世界に広く知らせたユージン・スミスというアメリカ人写真家のことを多くの人があらためて知る機会になることを願う。