本作での若葉の重要な仕事は、主役として存在しながらも、舞台である下北沢の街を引き立たせること。その点で、彼はどこにでもいそうな平凡な青年を意識的に演じ、ごく自然な佇まいで下北沢の街並みに溶け込んでいるように思える。それは例えば、ラーメンの食べ方や歩き方など、普通の日常生活を送るうえで当たり前に繰り返される行為の細部に感じられることだろう。本作鑑賞後に“聖地巡礼”に行った人も多いようだが、下北沢で若葉の姿を探してしまったのは筆者だけではないはずである。
そう感じさせるのは、本作での若葉の、“演じ過ぎない芝居”の賜物と言える。フィクションである以上、もちろん彼は役を演じているのだが、演じているのは私たちの身の周りにいるような、一人の生活者である。しかし、物語の転換点となる4人のヒロインに翻弄される瞬間ごとに会話劇が展開されると、良い意味で“芝居”が際立つ。ここがあまりに芝居じみてしまうと、“下北沢の街並みに溶け込んでいる一人の青年”という映画の空気感やバランスが崩れてしまう。だがそうはなっておらず、繰り広げられる会話劇はあくまで青の日常の一部として映るのだ。
監督の演出力もあるだろうが、やはり若葉の絶妙に優れた芝居のバランス感覚が大きいと思い知らされる。本作の物語で生み出された青という素朴な青年は、いつまでも“見ていたい”と思えるキャラクターとなっているが、筆者は、演じている若葉自身がずっと“見ていたい”と思える俳優なのだと改めて気付かされた。
【折田侑駿】
文筆家。1990年生まれ。映画や演劇、俳優、文学、服飾、酒場など幅広くカバーし、映画の劇場パンフレットに多数寄稿のほか、映画トーク番組「活弁シネマ倶楽部」ではMCを務めている。