コロナの影響を受けて一般の来院患者が減少する中、発熱患者も拒否している病院は、まるで春の日和のような穏やかな空気の中で、医師たちがコーヒーカップを片手に談笑している姿さえ目にする機会もあった。
このままでは大変なことになる。そんな思いが私の胸の内に生まれた。もとより感染力の強い新興感染症を、最初からすべての医療機関で受け入れるべきだとは、まったく思わない。感染者の総数が少なければ、限定した施設で受け入れるのが、公衆衛生上の観点から言っても肝要である。
けれども一旦感染爆発が起これば、ただちに体制を変更しなければいけない。その変更がまったく機能していない。機能していない理由のひとつは、実際に現場がどういう状況になっているかが伝わっていないためであろう。手厳しい言い方で恐縮だが、医療者でさえ、その多くがコロナ診療を対岸の火事のごとく眺めているのである。
「秘密」が認識の格差を生む
こういった事態をさらに複雑化させている要因として、コロナウイルス感染症のもつ「秘匿性」という特異な性質がある。端的に言えば、誰もがこの感染症について秘密にしたがる傾向があるということだ。
感染した事実や、身近に感染者がいることを隠そうとすることはもちろん、死者が出てもその年齢や基礎疾患は伏せられたまま報道され、医療機関もそのほとんどが入院患者の数を公表していない。この秘匿性が、コロナ診療の現場を一層困難な状況に追い込んでいる。
秘密であることは、先に述べたような「認識の格差」を生む。感染症の全貌を把握することは困難になり、どこに何人の患者がいるかもわからなければ、病院間の連携もスムーズに進まなくなる。実態が見えなければ、不安や不信は拡大し、苛立ちや警戒感が先走って、不必要な軋轢を生みだすことになる。
その意味では、コロナ診療の最大の敵はウイルスそのものではない。実態の見えないウイルスの存在におびえ、惨状から目を逸らし、ときに見当違いの憤りを噴出させる人間の心理にある。
誰もが力を合わせて戦わなければいけないこの未曽有の大災害の中で、怒りや不安や不信といった感情は、状況を改善しない。マスメディアは病的なまでに、これら負の感情をあおる報道を続けているが、偏った報道こそ警戒しなければいけない。無闇に他者を攻撃する言葉は、巡り巡って自分を傷つけるだけである。
さりとて目を閉じ、耳をふさいで素知らぬ顔をしていても、パンデミックが解決するわけではない。コロナを乗り越えるため、私たちに必要な事柄は、きわめて単純である。すなわち、力を合わせること、そして希望を持つこと、この二つだけなのだと私は思う。